ある朝の冠雪富士の一部見ゆ
池田秀水
富士山は雲に覆われていたが、白い頭だけがひょっこりと出ていた。タクシーの運転手は頭だけ見えるよと言ったが、一瞬見つけられなかったのでよく探すと、青い空の下、白い雲の上に思っていたよりも高いところに白い頭が出ていた。タクシーの運転手は、帰りには全部見えるよと言ったが、帰りとは何時のことなのだろうか。淡い期待を持ちながらタクシーは大通りに進んだ。
車が順調に動き出すと、タクシーの運転手は社交ダンスの話を始めた。私は富士の頭に気を取られていたが、隣の愛想のいい同僚が調子を合わせたので、運転手は気持ちよく話し始めた。
運転手「年齢は75歳」
同僚 「若いっすね」
運転手「社交ダンス歴25年」
同僚 「だから背筋がピンとしているのですね」
富士山が見えなくなったので、私も二人の会話に耳を傾けた。
運転手「昔は帝国ホテルで踊ったよ」
同僚 「すごいっすね」
運転手「先生にお金を払えば誰でも踊れるよ。先生はやっぱりプロだね。ステップを絶対に間違わない」
同僚 「運転手さんもだいぶお上手なんでしょう」
武州 「昔、Shall we dance? の映画が流行った時に、社交ダンスをやる人が増えたでしょう」
運転手「3回見たよ。いい映画だね」
車が急に止まった。一時停止の標識がある。
運転手「ここは警察が張っているから絶対に止まるんだ。いつもから止まる癖をつけないといざという時に出ちゃうからね」
同僚 「流石っすね。社交ダンスに通じますね」
しばらくすると、運転手が看板を指をさした。ダンスホールと書いてある。
運転手「ここで踊っているんだ」
同僚 「奥様も踊るんですか?」
運転手「踊らない。夫婦で踊ると必ず喧嘩になる。お互いにお前が悪いと揉めている夫婦を何組も見た」
タクシーが目的地についた。運転手は背筋を伸ばし、髪のポマードが輝いていた。
結局、富士山の頭だけ見て帰ることとなった。帰りの時間とはタクシーの運転手が非番となる夕方の時間のことだったのだろう。その時間よりだいぶ前に仕事が終わり、昼食に地元名物「生しらす丼」を食べ、他にすることもなかったので、新幹線の予定を繰り上げて東京へ帰ることにした。
(塚本武州)
【執筆者プロフィール】
塚本武州(つかもと・ぶしゅう)
1969 年、立川市生まれ。書道家の父親が俳号「武州」を命名。茶道家の母親の影響で俳句を始める。2000年〜2006年までイギリス、フランス、2011年〜2020年までドイツ、シンガポール、台湾に駐在。帰国後、本格的に俳句を習い、2021年4月号より俳誌『ホトトギス』へ出句。現在、社会人学生として、京都芸術大学通信教育部文芸コース及び博物館学芸員課程を履修中。国立市在住。妻と白猫(ユキ)の3人暮らし。
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