【第75回】
佐久と相馬遷子
広渡敬雄
(「沖」「塔の会」)
佐久は、長野県東部の小諸市、佐久市を中心とした地域で、中央を千曲川が流れ、東は群馬県境の荒船山、北に浅間山、南に八ケ岳がある。佐久鯉や高冷地野菜も知られ、小諸は、城下町で北国街道の宿場町。虚子が戦中戦後疎開した旧宅(高浜虚子記念館)、島崎藤村の詠った小諸城址(懐古園)、旧小諸本陣、藤村記念館、布引観音があり、平成二十一年から毎年七月下旬に「こもろ日盛俳句祭」が行われる。北陸新幹線、上信越自動車道の開通で、最近は経済の中心が小諸市から中山道の通る佐久市に移った。
冬麗の微塵となりて去らんとす 相馬遷子
山国の蝶をあらしと思はずや 高浜虚子
ふるさとは山路がかりに秋の暮 臼田亜浪(小諸出身)
佐久の郡ものの音なく冬に入る 前田普羅
新雪の千の白糸浅間嶺に 堀口星眠
小梅捥ぐ虹をかけたる佐久の空 青柳志解樹(八千穂出身)
藻の花のあはれ流れて行かぬなり矢島渚男(遷子の家近く)
その邊に千曲川ある野分の夜 仲 寒蝉
虚子庵や次の涼風待ちて佇つ 小林貴子
〈冬麗〉の句は、『山河』収録。昭和五十年十一月二十六日(逝去の一ケ月前)の作ながら絶句とされる。遷子自身も、この句を辞世と福永耕二に語っていた。
「原案は〈冬麗に何も残さず去らんとす〉、微塵とは当地で見られるダイヤモンドダストである。推敲されて、「無になる」から「微塵として残る」、つまりわが山河の一部になるとの決意表明に変わった本望の句」(仲寒蝉)、「肉体を離れた遷子の精神が、いまなお佐久の山河に浮遊し、宙空を漂泊している」(福永耕二)、「遷子は無神論者。死んだあとは、死後の世界も来世もない。が、「冬麗の微塵」という美しい終末を確信している。馬酔木的な俳句の美への信仰というより、武士の風格を感じる」(筑紫磐井)。「死に際して縋るものは無い。だからこそ「微塵」となる。「微塵」でしかないとの覚悟が痛切に響く」(原雅子)等の鑑賞がある。
相馬遷子(本名富雄)は、明治四十一(一九〇八)年、野沢町(現佐久市野沢)生まれ。小学校五年の大正八年、薬局を営む父が上京し米穀商となったため、旧制浦和高校から東京帝国大学医学部を卒業した。医局勤務の折の昭和十(一九三五)年、「卯月会」に入り、水原秋櫻子に師事、俳号は、「シナノガキ」の漢語の別名「君遷子(くんせんし)」に拠る。人間探求派の石田波郷にも兄事し、「鶴」同人。同十四年に「馬酔木」新人賞を受賞し同人(同二十年には同人会長)、同十五年応召,日中戦争中の大陸に出征するも結核で除隊となり本土へ送還後療養。同十八年病気が癒えて、函館病院内科医長として渡道、「鶴」同人で「壺」主宰斎藤玄とも交流。
懐古園水の手展望台からの千曲川(こもろ観光局)
終戦後、佐久に戻り、玄の助力で句集『草枕』を上梓。故郷の自然を詠み、堀口星眠、大島民郎等と共に「馬酔木高原派」と呼ばれた。同二十二(一九四七)年、生誕地の野沢新町で、弟(外科)と共に医院(内科)を開業した。同三十一年には、師秋櫻子の序文、波郷の跋文の句集『山国』を刊行。結社賞の馬酔木賞を受賞した。
同四十四(一九六九)年、上梓の後記に、「雪嶺は私にとって佐久の自然の代表」とある句集『雪嶺』で第九回俳人協会賞を受賞した。医師として俳人として活躍していたが、同四十九年胃癌を発病し、佐久総合病院に入院手術を受けたが、病状は悪化、再入院となったが、句境はいよいよ冴えた。病床に届けられた句集『山河』を手に、同五十一(一九七六)年一月十九日、逝去。享年六十七歳。
懐古園(小諸公園 こもろ観光局)
この句集は、波郷しか受けてない馬酔木最高の結社賞「葛飾賞」を受賞した。秋櫻子が最も信頼し、嘱望した俳人で、馬酔木の著名俳人、石塚友二、石川桂郎、相生垣爪人,能村登四郎、堀口星眠、林翔、藤田湘子等も受賞していない。没後六年後『相馬遷子全句集』が刊行された。墓は野沢の金台寺に、秋櫻子との師弟連袂句碑は、前山の貞祥寺にある。〈寒牡丹白光たくひなかりけり 秋櫻子〉〈雪嶺の光や風をつらぬきて 遷子〉。遷子が会長を務めた佐久医師会に所属する俳人仲寒蝉が、遷子に敬愛傾倒し、同じ思いの同志の筑紫磐井、中西夕紀、原雅子、深谷義紀氏と現地調査も含め共同研究し『相馬遷子―佐久の星』(邑書院)を刊行した成果は大きく、埋もれていた遷子が脚光を浴び、われわれは相馬遷子の俳句の全容を知ることが出来る。
「遷子俳句は、信州の自然を中心とした馬酔木高原派、社会性俳句、波郷の影響を受けた境涯句、医師俳句、さらに闘病俳句に至るまでの幅広いジャンルに亙る。ここでいう医師俳句は、狭義の往診・診察風景等の医師としての業務を詠んだ句と、広義の病気・病人や人の死を医師の眼を通じて詠んだ句を言う。殊に遷子が医師だった頃の佐久地方は日本一脳卒中が多い地域だったこと、老境に達してその佐久の自然への遷子の思い入れも念頭に入れる必要がある」(仲寒蝉)は、大いに参考となる。
「間近に迫った死への思いと絶望の淵での精神的葛藤の中で、心は澄みゆき洗心浄化の自らの境地を深めた。自然諷詠と境涯性という永遠の課題の一つの到達が遷子の世界であった。遷子が貫いた凛乎たる文学精神は心友波郷との黙契とも言える」(秋山巳之流)、「病を得てからの作品の迫力は、只々驚嘆の外はない。遷子は、才智に頼らずして誠に徹して華を得た、私にとっては忘れがたい俳人のひとり」(飯田龍太)、「遷子において冷徹な客観精神とみずみずしいロマン精神が、損なうことなく保たれた」(堀口星眠)、「発言も声音もごく控え目で物静かだったが、物凄く硬い鋼鉄の心棒が一本通っている気風だった」(齋藤玄)、「死までの病との悽愴で悲惨な戦いの数か月の詠吟は文字通り絶唱」(矢島渚男)等々の鑑賞がある。
妻病めば光て消ゆる霜を見る (句集『草枕』)
草枕ランプまたゝきしぐれくる 法師温泉
冬木に向ひ顔のこはゞり解かむとす 令状来る
一本の木陰に群れて汗拭ふ 出征従軍
煮凝や他郷のおもひしきりなり 函館病院赴任
吾子とわれ故山に立つる鯉幟 (句集『山国』)
寒雀故郷に棲みて幸ありや
猟銃音湖氷らんとしつゝあり 堀口星眠等と松原湖
燕来て八ヶ岳(やつ)北壁も斑雪なす
往診の夜となり戻る野火の中
農婦病むまはり夏蚕が桑はむも
家を出て夜寒の医師となりゆくも
年の暮未払患者また病めり
雪嶺へ酷寒満ちて澄みにけり
夕蝉や黙して對ふ癌患者 (句集『雪嶺』)
曇り空かりがね過ぎし跡ひかる
汗の往診幾千なさば業果てむ
病む人に銀河を残し山を去る
辛夷咲き浅間嶺雪を梳る
酷寒に死して吹雪に葬らる
死病診るや連翹の黄に励まされ
田を植ゑてわが佐久郡水ゆたか
卒中死田植の手足冷えしまま
山の雪俄かに近し菜を洗ふ
子が嫁ぎ妻と二人の冬隣
凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ (句集『山河』)
春光に君見る医師の眼もて 重篤の石田波郷
信濃びとわれに信濃の涼風よ
未明書くカルテに年の改まる
噴煙をおのれまとひて雪の嶺
わが山河まだ見尽さず花辛夷
わが病わが診て重し梅雨の薔薇
夏痩せにあらざる痩をかなしみぬ
来年は遠しと思ふいなびかり
入院す霜のわが家を飽かず見て
死は深き眠りと思ふ夜木枯
わが山河いまひたすらに枯れゆくか
かく多き人の情に泣く師走
蒼天下冬咲く花は佐久になし
俳壇では余り名も知られていないにも関わらず、石田波郷、山本健吉、飯田龍太等俳壇の慧眼が一目を置き、佐久の地を愛し、医師としての矜持をもつ生き様(更にに闘病句)は龍太のいうように「才智に頼らずして誠に徹して華を得た」に尽きるであろう。
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【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』『風紋』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。俳人協会評議員。日本文藝家協会会員。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。新刊に『全国・俳枕の旅62選』(東京四季出版)。
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【第71回】志摩と友岡子郷
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