
骰子の一の目赤し春の山
波多野爽波
掲句をどう読むか。
読みを一つに定めることは出来ませんが、春のはじめの気配を感じ取った一句のように思えました。
まず「骰子の一の目赤し」とあり、小さな一点の赤が目に入ってきます。
骰子は何度も転がされるもので、多くの黒い目は無機質な印象を持ちます。
もしかすると、博打のような場であったのかもしれません。人の気配のあるその場で、偶然に現れた一の目の赤さは、ささやかながら確かな色として存在します。
そのあとに「春の山」と続き、視線は手元の小さな赤から、遠くの山へと開かれていきます。
春の山といっても、花が満ちる晩春ではなく、まだ色の少ない早春の、ごく僅かな兆しとして、この一粒の赤が響くように感じました。
骰子の赤は偶然に現れたものですが、春の山は季節の巡りの中にあります。
人間の小さな遊戯から、大きく静かな自然へと世界が繋がるこの一句において、「春の山」は背景ではなく到達点なのではないでしょうか。
それは、視線かもしれませんし、意識かもしれません。
波多野爽波『骰子』(1986)角川書店 所収
(菅谷糸)
【執筆者プロフィール】
菅谷 糸(すがや・いと)
1977年生まれ。東京都在住。「ホトトギス」所属。日本伝統俳句協会会員。

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