蟻・とかげ声持たぬ愛はげしかり 熊谷愛子【季語=蟻・とかげ(夏)】


・とかげ声持たぬ愛はげしかり
熊谷愛子
(「愛鍵」)

 作者は大正12年、石川県生まれ。後に静岡県に転居。昭和19年、21歳の頃、熊谷静石と結婚。夫、静石の影響で俳句をはじめる。昭和27年、29歳の頃、超結社同人誌「海廊」(野呂春眠代表・熊谷静石発行人)に参加し、編集等を手伝う。静岡県に拠点を置きつつ、「ホトトギス」の野呂春眠、「萬緑」の高橋沐石、「主流」の田中波月らと交流を持つ。昭和30年、32歳の頃、加藤楸邨主宰「寒雷」に参加。夫の静石も二年後に参加する。昭和56年、58歳の頃、第一句集『火天(ひあま)』出版。昭和62年、64歳の頃、夫の静石とともに主宰誌「逢」を創刊。平成2年、67歳の頃、第二句集『水炎(みずほむら)』出版。平成9年、74歳の頃、第三句集『旋風(つむじ)』出版。平成11年、76歳の頃、現代俳句協会賞受賞。平成12年、77歳の頃、夫の静石逝去。平成23年、米寿を機に「逢」終刊。平成27年、92歳逝去。

 熊谷愛子は、火にまつわる句が多い。火は人のものであり、生活にも製造にも必要なものである。戦争体験者である作者にとって火は、戦争の記憶を呼び起こすものでもあった。
   消えぎはの虹溶接の火点とす(『火天』)
   たこやきのとろ火ぱつぱと梅ひらく(『火天』)
   火事に走りその後を走りつづけをり(『火天』)
   娘の死まだわが火とならず鉦叩き(『火天』)
   凌霄花のまひるの火勢遠江(『水炎』)
   ほうたるよせつせつ水も炎(ほむら)なす(『水炎』)
 一句目の〈消えぎは〉の句は、建設現場か工場などで火花を散らす溶接の場面を見て詠んだのであろう。消え際の虹を書き足すように溶接の火が点けられる。二句目の火は、〈たこやきのとろ火〉である。とろ火で焼きつつ、ばっぱと裏返されてゆくたこやき。そのように梅の花も咲いていった。三句目は、火事の記憶である。戦火による火事であろうか。それ以来ずっと走りつづけているのは、人生のことでもある。四句目の〈娘の死〉とは、二十七歳で亡くなったご息女のことらしい。その死がまだ自分の心のなかの火にならない。当時すでに愛子のテーマは≪火≫であった。娘の死を受け止めきれていないことが分かる。五句目は、〈凌霄花〉の花の赤さを火として捉え、空襲で燃えていった遠江を詠んだ。六句目は、蛍火が水に映ってゆらめくさまを〈炎なす〉と描写している。このように愛子は、いろいろな火の様相を詠んでいるが、愛子の句にはいつも火のような激しさがある。

 戦争の句は、晩年まで繰り返し詠んだ。年齢とともに戦争の句を残しておかなければならないという意識を強く持ったようである。
   髪剪りゐる鋏のひえは兵器の冷え(『火天』)
   いくさ知らぬ子らへよぢれてどんどの火(『水炎』)
   十二月八日かがみて恥骨在り(『水炎』)
   銃後てふはかなきことば八月来(『旋風』)
   うつむけば銅溶けて無し終戦日(『旋風』)
   原爆忌土埃あげ駝鳥駆く(『旋風』)
 一句目は、〈鋏〉を〈兵器〉として捉えている。戦時中、金属不足のために行われた「金属類回収令」。鋏もまたその対象であり、回収された鋏は溶かされ兵器になった。作者は子供の髪を切りながら、兵器になっていった鋏を思ったのだ。〈どんどの火〉もまた戦時の火を思わせ、よじれた火にはしゃぐ子供達を〈いくさ知らぬ子〉として眺めている。〈十二月八日〉は太平洋戦争開戦の日であり、〈恥骨〉は体幹を支える重要な部位である。本来は隠さねばならない体の部位が屈んだときにあらわに見えたのだ。自身の身体に引き付けて国の基盤の危うさを詠んでいる。〈銃後〉を〈はかなきことば〉として捉えている作者。戦争がまたはじまることを予感している。〈うつむけば〉の句も、「金属類回収令」を思わせる句である。〈原爆忌〉も毎年詠んでいる。駱駝がたてた土埃に原爆投下の際のキノコ雲を思ったのだ。

 死を詠んだ句も多い。戦争による死、親族の死、医者であった夫の経営する病院の死など。死もまた、生涯にわたって詠み続けた。
   死の雨へ鋼の手足藷買ひに(『火天』)
   野分あと天と棺とすすみけり(『水炎』)
   死のまぶた天井に火蛾追ひつめし(『旋風』)
   かげろふへ時計の世からまたひとり(『旋風』)
   十三夜なきがらの陰(ほと)火のごとし(『旋風』)
 〈死の雨〉とは、原爆投下後に降った「黒い雨」のことか。〈鋼の手足〉も義手や義足のことなのか、それとも痩せて硬くなった手足の比喩なのか。食糧不足の戦中戦後は、藷が主食であった。〈野分あと〉の句は、親族の葬儀のことらしい。野分雲の速度で運ばれてゆく棺。不幸が相次いでいた時期だった。〈死のまぶた〉の句は、夫の病院での死者を詠んだ句とされている。医師が死者のまぶたを閉じる際に、その見開かれた瞳孔が天井の火蛾を追いつめているように見えたのだ。死者の視点で詠んでいるところが冷静である。四句目は、死者の魂が〈かげろふ〉になったことを詠んでいる。死者はもう時計に縛られることはない。〈十三夜〉の〈なきがら〉もまた、病院の死者なのだろうか。日本神話のイザナミは、火の神を生んだことで命を落とす。〈なきがらの陰〉を火に喩えることにより、転生を祈ったのかもしれない。
   癒えずとも生きよ夜目なる雪の薔薇(『旋風』)
 病人を詠んだ句も多い作者。その心情を素直に吐露した句である。病院としては快復して貰わなくては困るのだが、死を待つだけの患者もいる。どんな形であれ、生きていて欲しいと願う気持ちは、家族も病院側も同じである。

 愛子の実家はクリスチャンであるため、キリスト教に関わる句も見られる。
   原罪の股ぐら熱し実梅採り(『火天』)
   懺悔台に置き忘られし夏帽子(『火天』)
   火にて開く蛤旧約聖書かな(『水炎』)
   片陰ゆく神父とサタン同一人(『旋風』)
 〈原罪〉とは、アダムとイブが神から禁じられていた「知恵の木の実」を食べた罪のことで、キリスト教では、人は生れながらにして罪を背負っていると考えられている。その原罪の〈股ぐら〉が熱いとは、性欲を示していると思われる。そして知恵の実ならぬ〈実梅採り〉なのが、何とも面白い。二句目では、〈懺悔台〉に忘れられた〈夏帽子〉を詠んでいる。この忘れ物のことも懺悔して欲しいと言わんばかりである。三句目は、火に炙られた蛤が口を開けるように旧約聖書を開くことを詠んでいる。人の残酷さや、生と死、火というものが旧約聖書へと響いている。四句目の〈片陰〉の句では、神父と対極にあるサタンが同一人物なのである。人間の持つ陰と陽の面を思わせる。愛子が本当にキリスト教を信仰していたのかどうか疑わしい句ばかりである。洗礼を受けてはいたが、懐疑的だったのかもしれない。

 不思議な世界観を持っている作者であるから、虚実ないまぜの句も多い。以下の四句は、不思議だけれども怖い句である。
   包丁始鬼ゐて逆手そそのかす(『水炎』)
   げんげ田に殺すあそびの紐来たる(『水炎』)
   竹を伐る男しだいに白狐たり(『旋風』)
   曲いつか魔王に変り黒牡丹(『旋風』)
 〈包丁始〉は、新年になり始めて包丁を持つことである。すると心の中に鬼がいて、〈逆手〉をそそのかすのである。包丁を逆手に持つのは誰かを刺そうとするときである。誰を刺そうとしたのだろうか。〈げんげ田〉の句では、〈殺すあそびの紐〉が来る。子供の遊びにしては、危険なのではないか。殺しをあそびにしている句にも読める。三句目は、〈竹を伐る男〉が〈白狐〉になってしまう。狐に騙されているのか、妖術なのか。四句目では、流れていた曲がシューベルトの〈魔王〉に変わる。魔王の詞は、幼い頃聞くとトラウマになるぐらい怖い。そして目の前の牡丹も魔王のような〈黒牡丹〉になる。怖いけれど、惹かれる句である。

 逆に明るい句、可笑しい句もある。
   あしのうらくすぐちやおうか寝じやかさま(『火天』)
   太陽は卑弥呼の鏡栗の花(『水炎』)
   抜きたてのはうれん草は青い鳥(『旋風』)
 一句目は、寝釈迦の足の裏をくすぐってしまおうという、いたずら心溢れた句だ。平仮名表記や〈寝じやかさま〉という言い回しから、子供の発言を句にしたような演出がなされている。二句目の〈太陽は卑弥呼の鏡〉には、古代の明るさがある。太陽神になぞられる卑弥呼は鏡で祭祀を行った。三句目は、〈はうれん草〉を〈青い鳥〉に見立てたのが見事である。青い鳥が希望を感じさせる。

 生と死を見つめてきた作者ではあるが、艶っぽい句も詠む。
   木枯にさらはれたくて髪長し(『火天』)
   月白や指などからむ遊びせむ(『水炎』)
   女正月ふぢいろのこの酔ひごころ(『旋風』)
   宵闇や撫づるかに名をよばれゐて(『旋風』)
   女郎花男郎花ここ地獄谷(『旋風』)
 一句目の〈木枯〉の句は、〈さらはれたくて〉に恋の感触がある。もしかしたら、若くして亡くなった娘のことを詠んだのかもしれない。〈夜ざくらへ亡き娘が髪をひるがへす 愛子〉という句もあり、髪の長い娘であったことが分かる。二句目の〈指などからむ遊び〉とは、指相撲や手遊び歌のこととも考えられるが、月の出を待つ男女の戯れのようにも見える。〈遊びせむ〉という呼びかけから、遊女の遊びのようにも思われる。〈女正月〉の句は酔い心を〈ふぢいろ〉として捉え、やはり遊女のような艶やかさがある。〈宵闇〉の句も、撫でるように呼ばれる名が睦言のようである。五句目の〈女郎花男郎花〉は、男女の恋の果ての地獄を思わせる。どの句も季語に誘発され、艶っぽさを引き出す作り方になっている。言葉の強い作者の句も季語によっては、抒情的な句となる。

 身体を詠んだ句には、エロティシズムがある。
  晩夏とはのけぞる喉の女かな(『旋風』)
   舌といふ肉白桃の肉を捲き(『旋風』)
 〈のけぞる喉の女〉とは、どのような場面であろうか。苦しみや慟哭の場面だったのかもしれないが、のけぞる喉にエロスを感じたのだ。〈舌といふ肉〉が〈白桃の肉〉を捲く二句目は、道具立てからしてエロティックである。淡々とした事実の報告が読者の想像を膨らませる構造となっている。作者にとって性愛の句は、生を詠む過程のなかで産まれた表現なのだと思われる。〈喉〉や〈舌〉など、艶っぽさのなかに怖さがひそむ。

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