谷岡健彦の「秋櫻子の足あと」

秋櫻子の足あと【第2回】谷岡健彦


秋櫻子の足あと
【第2回】

谷岡健彦
(「銀漢」同人)


戦時中、高濱虚子は小諸に疎開していた。一方、秋櫻子は1945年8月の終戦を八王子の寓居で迎えている。神田三崎町にあった自宅と病院は、同年4月の空襲で焼失してしまったのである。用紙不足のために、結社誌「馬酔木」はすでに3月号をもって休刊とせざるをえなくなっていたし、2年前の1943年の冬には、次男の富士郎が急病で早世するという悲劇にも見舞われている。宮内省侍医という相対的に恵まれた境遇にあったとはいえ、それでもやはり、心労の絶えない戦時下の暮らしを強いられたと言ってよいだろう。終戦から3年後に刊行された第8句集『重陽』をふり返り、秋櫻子は全集の月報に「身心共に疲れはてていたときの作だから、いま深い愛着はない」と記している。

しかし、『重陽』からわずか2年後に上梓した『霜林』で、秋櫻子は打って変わったような気力の充実を見せる。句に詠まれている内容にまで目を光らせていた軍部の統制からの解放が、よほど喜ばしかったのだろう。<冬菊のまとふはおのがひかりのみ>など、数々の秀吟を収める本作を、第1句集『葛飾』と並ぶ高峰と見なす評者も少なくない。今月はこの『霜林』から早春の句を引こう。

 伊豆の海や紅梅の上に波ながれ

1950年、横浜の殿村莵絲子宅で開かれた句会での作である。「梅」が兼題で、自句自解によれば、その年の1月に熱海に出かけた折に目にした景色を思い浮かべつつ詠んだ句らしい。

なるほど、坂の多い熱海ならではの構図である。小高い丘の上から、眼下の梅林を眺めているのだろう。遠くには真っ青な伊豆の海が広がっている。早春のこととてまだ風が荒く、沖合に白波が立つのが紅梅の枝越しに見える。いかにも秋櫻子らしい色彩の鮮やかな句ではないか。

筆者が勤務する大学構内の梅=筆者撮影=

わたしも一度、梅の咲くころに熱海へ出かけたことがあるが、あいにくの雨模様で視界が悪く、掲句のような眺望はなかなか得られなかった。ようやく秋櫻子ふうの構図を目にすることができたのは、高台にあるMOA美術館まで足を延ばしてからのことである。と言っても、展望台から海を見たのではない。この美術館が所蔵する尾形光琳の『紅白梅図屏風』の前に立ったのである。光琳が梅に配したのは海ではなく川であるが、空間処理の大胆さにおいて光琳と秋櫻子には相通ずるものがあるように思う。

この句の中七から下五にかけて、秋櫻子はまず「紅梅の上に波」と、ふつうの見え方とは上下を逆にして二物を提示し、その波に「ながれ」と動きを持たせて句を結ぶ。いきなり屏風の上端から下へと梅の枝のみを描き、屏風に収まらぬ幹の大きさを暗示させる光琳の画法を見るようだ。同じく伊豆の春の景色を花と合わせて素直に詠みとめた沢木欣一の1965年の作<伊豆の海紺さすときに桃の花>と比べてみるとよい。秋櫻子が、風景をいかに華麗にデフォルメしているかがよくわかるだろう。

また、「伊豆の海」という五音のフレーズにあえて切字をつけ、「伊豆の海や」とした上五の字余りにも注目したい。このただならぬ重みを持った打出しが、『金槐和歌集』所収の次の和歌をふまえたものであることは、よく知られている。

 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ(齋藤茂吉の校訂に従う)

古来、激賞されてきた源実朝の万葉調の代表歌である。第1句集『葛飾』では<梨咲くと葛飾の野はとの曇り>など万葉語を積極的に取り入れた句作をし、第3句集『秋苑』には<菊かをり金槐集を措きがたき>という句もある秋櫻子にとっては、この和歌は愛誦の一首だったにちがいない。

鎌倉幕府の将軍は、正月に箱根権現と伊豆山権現を参詣するのが恒例だったようで、右に引いた歌はその二所詣の際の作である。実朝もまた、ふつうに「伊豆の海」と詠めば定型に収まるところにわざと「や」を足しているのだが、この破調の効果が絶大だ。それまで心地よく流れてきた調べが、字余りの第三句で少し淀む。わたしには、それがまるで馬上の実朝が眼前に開けてきた海(「伊豆」は「出づ」との掛詞)に見とれて、思わず手綱を引き、歩みの速度を遅らせたように感じられてならないのである。

この実朝の歌の第三句を上五に据えたことで、十七音には盛り込めなかった遠景の「沖の小島」や背後の「箱根路」も見えてきて、句に広がりが生まれている。しかし、秋櫻子の意図は、そのような技巧面にはとどまるまい。敬愛する歌人と同じ景色を見て、同じように心を動かされている感慨、万葉集以来の日本の詩歌の伝統に連なれた喜びが、この字余りの上五に込められているはずだ。

この句は得心のゆく作だったらしく、短冊に揮毫することも多かったようだ。自句自解は次のように結ばれている。「短冊に書くとき、濁点をとるのが定法だから『波なかれ』と書く。そうすると、そのままに解釈して『波無かれ』と思っている人があるらしい。これには全く閉口する」。


【執筆者プロフィール】
谷岡健彦(たにおか・たけひこ)
1965年生まれ。「銀漢」同人。句集に『若書き』(2014年、本阿弥書店)、著書に『現代イギリス演劇断章』(2014年、カモミール社)がある。



【「秋櫻子の足あと」のバックナンバー】
>>【第1回】初日さす松はむさし野にのこる松



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