秋櫻子の足あと【最終回】谷岡健彦


秋櫻子の足あと
【第12回】(最終回)

谷岡健彦
(「銀漢」同人)


 大阪に帰省したときのことである。旧友と飲んでいると、東京にも「えべっさん」はあるのかと尋ねられた。言われてみれば、東京で1月10日の初戎が話題になるのを耳にしたことがない。くまなく調べたことはないけれども、少なくとも今宮戎神社のように多くの参詣客で賑わう戎祭はないはずだと返答したところ、彼はおおいに得心がいったようだった。「やっぱり、そうか。商売繁盛だけを一心に神さまに祈願するというのんは、大阪ならではなんやろな」。ここから始まった彼一流の大阪文化論があまりに面白かったため、東京の鷲神社では年に2回、多い年には3回も酉の市が開かれるということを、ついに彼には言えずじまいとなった。

 酉の市だけではなく、朝顔市や鬼灯市も関西ではなじみが薄い。さらに羽子板市となると、子どものころに羽子突きをして遊んだ経験がほとんどない男の自分には、いっそう縁遠い。しかし、神田で生まれ育った秋櫻子にすれば、このように江戸情緒の濃い行事はまさに自家薬籠中の句材であった。没後の1986年に刊行された句集『芝居の窓』(東京美術)に収録されている「羽子板の句」というエッセイに、秋櫻子は次のように書き記している。「いまの東京では追羽子をする人が減ってしまったから、この羽子板市も昔ほど人眼を惹かなくなってしまったが、私のように東京に生れ、殆ど東京を離れなかった者にとっては、まことになつかしく、都合がつけば毎年欠かさずに行って見たいような気がするのである」。

新派の名優が顔を揃えた2016年の羽子板市

 秋櫻子がかくも羽子板市に愛着を持っていたのには、彼が生粋の江戸っ子というだけではなく、無類の歌舞伎好きだったことも関わっていよう。羽子板市には、その年の当り狂言の俳優を描いた押絵羽子板がずらりと並ぶ。藤田湘子の『秋櫻子の秀句』(小沢書店)によれば、秋櫻子が生涯に詠んだ「羽子板」の句は24にもおよぶそうだが(このほかに「羽子板市」や「追羽子」で詠まれた句もある)、その多くは<羽子板や勘平火縄ふりかざし>や<羽子板の道節印を結びけり>のように、羽子板の押絵となった歌舞伎の名場面を詠んだものである。ただ、あまり芝居好きではなかった湘子には、歌舞伎を題材にした秋櫻子の句の鑑賞が手に余ることがあったようで、<羽子板や絵師がおち入る地獄変>を難解でふしぎな句と評している。芥川龍之介の小説『地獄変』三島由紀夫が歌舞伎に翻案していることを知らなかったのだろう。

こうした秋櫻子の「羽子板」の句のなかでも、ひときわ有名なのが次の句だ。

 羽子板や子はまぼろしの隅田川

 1977年刊行の『餘生』所収の句で、1973年の作である。主題となっているのが、梅若伝説をもとにした歌舞伎の舞踊劇『隅田川』であることは言うまでもなかろう。人買いにさらわれた梅若丸を京都から隅田川まで追ってきた母親が、川岸に建立された愛児の塚の前で、生前の姿の幻と対面するという悲痛な筋立ての劇である。

 歌舞伎座で1972年9月に『隅田川』が上演され、その筋書(パンフレット)に秋櫻子は<川波の月や子ゆゑのものぐるひ>という句を寄せている。母親役を演じたのは、六代目の中村歌右衛門だ。このときの舞台の印象を思いおこしつつ、翌年の新春詠として発表されたのが「羽子板」の句である。上五に切字を入れ、ひとつも動詞を使わずに下五を体言で止めた無駄のない詠みぶりが清々しい。戦後屈指の女形と言われた歌右衛門の舞台上での佇まいまで髣髴とさせる佳吟である。

 先述した「羽子板の句」には、この句についての自解も記されているが、それを読むかぎりでは、優れた舞台の一場面を印象鮮やかに詠みとめるという以上の意図は、秋櫻子自身にはなかったようだ。しかし、「隅田川」の句が、「勘平」や「道節」の句よりも格段に胸に響くのは、たんに句形が美しく、調べがより流麗なためだけではないだろう。掲句の読者は、どうしても中七下五に作者の境涯を重ねてしまう。すでにこの連載で何度かふれているが、秋櫻子は次男の富士郎に先立たれているのである。1943年、まだ18歳の若さだった。

 富士郎の逝去から6年後の1949年、秋櫻子は「上京の車中、亡き子にいと似たる青年わが前に立てり」という前書のついた<その眉に櫨紅葉すぎ松が過ぐ>という句を詠んでいる。自解によれば、八王子から都心に出ようと中央線に乗ったところ、着席すると自分の前に富士郎そっくりの青年が立っていたそうだ。とくに眉の濃いところがよく似ていたらしい。秋櫻子は、線路沿いの櫨紅葉や松の影が、その見知らぬ青年の眉元をよぎってゆくのを座席から飽かずにじっと見上げ続けた。青年が国分寺駅で下車したとき、しばらく「心が虚ろになったまま」だったという。言わば、秋櫻子は梅若丸の母のように「子のまぼろし」をありありと目にしていたのである。『隅田川』の舞台を詠んだ句が、秀句となるのも無理はあるまい。

「羽子板」の句碑

 この句の碑は、隅田公園内に建っている。地下鉄の浅草駅から北へと歩き、言問橋を過ぎてすぐのあたりだ。わたしが訪れたのは、平日の昼間だったから、周囲には子どもの姿はほとんどなかった。梅若伝説も秋櫻子の生涯も知らずに、この句碑の前に立つ人は、まだ追羽子を楽しむ子がたくさんいた古き良き時代の隅田川の正月風景を懐かしんだ句と読むかもしれない。句が詠まれてから半世紀が経とうとする現在、意外にこの解釈がいちばん共感を呼ぶような気がする――秋櫻子の作句意図とは大きくずれるにしても。


【執筆者プロフィール】
谷岡健彦(たにおか・たけひこ)
1965年生まれ。「銀漢」同人。句集に『若書き』(2014年、本阿弥書店)、著書に『現代イギリス演劇断章』(2014年、カモミール社)がある。


【「秋櫻子の足あと」のバックナンバー】
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