毎月第1日曜日は、歌人・服部崇さんによる「新しい短歌をさがして」。アメリカ、フランス、京都そして台湾へと動きつづける崇さん。日本国内だけではなく、既存の形式にとらわれない世界各地の短歌に思いを馳せてゆく時評/エッセイです。
【第21回】
正字、繁体字、簡体字について
佐藤博之『殘照の港』(2024、ながらみ書房)を読んだ。佐藤は旧かな遣い、漢字は正字を用いることにこだわる。歌集のタイトルの漢字にも正字を用いる。「港」の字についても実際にはさんずい(氵)に「巷」を用いている。以下においても、歌集で用いられている正字とは異なる漢字を用いている箇所があるかもしれないことをお断りしておきたい。
正字とは何か。「正しい字」というネーミングはどうかと思うが、基本的には『康煕字典』に載っている字体が日本の「正字」の基準とされているようだ。第二次大戦後の日本では、当用漢字、常用漢字が制定され、いわゆる新字体がひろく用いられるようになった。これにあらがって「正字」を用いるのはなかなか困難を伴うものだが、佐藤はあえてその道を選んだ。歌集のあとがきには「特に正字についての希望を細かく叶へて下さいましたことについて、本當に有難うございました」とある。
台湾では通常「繁体字」と呼ばれる漢字が用いられている。台湾で用いられている「繁体字」と日本の「正字」との異同について詳しく承知しているわけではないが、同じものまたは似通っているものが多いとは感じられるところである。台湾で用いられる漢字が「繁体字」と呼ばれるのは、中国大陸においては1950年代に制定された字体が「簡体字」と呼ばれることとの対比の意味合いもあるのであろう。日本の新字体、台湾の繁体字、中国大陸の簡体字とそれぞれの地で同じ漢字でも字体が異なっているのが現状となっている。
と書いてきたのは、次の一首が気になったからである。
中国语研究会のメンバーの聲調正しき碰 吃 槓 榮和
中国語の「語」の漢字が簡体字「语」になっている。声調の「声」は正字あるいは繁体字「聲」が用いられている。とても不思議な感覚を覚えた。
歌集は、後半に至って相聞が目立つ構成になっている。旧かな遣い、正字が相聞に溶け込んで不思議な印象をもたらしている。
君の歌ふうさぎの歌を近く聞き闇夜に香り立つ沈丁花
うさぎの歌が愛らしい雰囲気を出しているが闇夜の沈丁花が一首を落ち着かせている。「近く」がとても気になる。
蝙蝠舎の仄く色づく照明に君の肌の冴え透りゆく (※「透」は2点しんにょう)
初句が蝙蝠舎だから一首が「君の肌」を詠いながらも甘くなり過ぎないのだろう。それでも甘いが。
ここがいいとベランダに立つ君の貌のもつとも曜やく部屋に決めけり (※「曜」はヨヨではなく羽)
「顔」ではなく「貌」としたところがよかった。あとがきによると、妻は「西村曜」である。この一首に「曜」の字が使われている。
水出しの麥茶の淺く色づくを確かむるたび卵が笑ふ
「麦」が「麥」となっているところが趣を感じさせる。結句「卵が笑ふ」が楽しい。なんどもなんども色づくのを確かめている。
冷や飯を温めなむと妻の言ふチンするはンを尻上がりに言ふ
妻の言葉は何でも楽しい。「チンする」と言う時のイントネーションにさえ心を浮き立たせている。最初に「冷や飯」を持ってきているところがいいのだろう。
歌集ではこのほか、バイクの歌、父の歌に惹かれた。また、句読点の活用に釈迢空の伝統に連なろうとするところを感じた。最後に、これらについても歌を引いておきたい。
賣りに行く爲にかけつるエンジンのかかかかかかかかかり惡しかり
圓く圓く目のみを大きく見開きたる父の最期の夜に照る月
球場のある町。木かげ、油蟬。ブラスバンドをかき消す歓聲 (※「消」「歓」はそれぞれ旧字体)
【「新しい短歌をさがして」バックナンバー】
【20】菅原百合絵『たましひの薄衣』再読──技法について──
【19】渡辺幸一『プロパガンダ史』を読む
【18】台湾の学生たちによる短歌作品
【17】下村海南の見た台湾の風景──下村宏『芭蕉の葉陰』(聚英閣、1921)
【16】青と白と赤と──大塚亜希『くうそくぜしき』(ながらみ書房、2023)
【15】台湾の歳時記
【14】「フランス短歌」と「台湾歌壇」
【13】台湾の学生たちに短歌を語る
【12】旅のうた──『本田稜歌集』(現代短歌文庫、砂子屋書房、2023)
【11】歌集と初出誌における連作の異同──菅原百合絵『たましひの薄衣』(2023、書肆侃侃房)
【10】晩鐘──「『晩鐘』に心寄せて」(致良出版社(台北市)、2021)
【9】多言語歌集の試み──紺野万里『雪 yuki Snow Sniegs C H eг』(Orbita社, Latvia, 2021)
【8】理性と短歌──中野嘉一 『新短歌の歴史』(昭森社、1967)(2)
【7】新短歌の歴史を覗く──中野嘉一 『新短歌の歴史』(昭森社、1967)
【6】台湾の「日本語人」による短歌──孤蓬万里編著『台湾万葉集』(集英社、1994)
【5】配置の塩梅──武藤義哉『春の幾何学』(ながらみ書房、2022)
【4】海外滞在のもたらす力──大森悦子『青日溜まり』(本阿弥書店、2022)
【3】カリフォルニアの雨──青木泰子『幸いなるかな』(ながらみ書房、2022)
【2】蜃気楼──雁部貞夫『わがヒマラヤ』(青磁社、2019)
【1】新しい短歌をさがして
【執筆者プロフィール】
服部崇(はっとり・たかし)
「心の花」所属。居場所が定まらず、あちこちをふらふらしている。パリに住んでいたときには「パリ短歌クラブ」を発足させた。その後、東京、京都と居を移しつつも、2020年まで「パリ短歌」の編集を続けた。歌集『ドードー鳥の骨――巴里歌篇』(2017、ながらみ書房)、第二歌集『新しい生活様式』(2022、ながらみ書房)。
Twitter:@TakashiHattori0
挑発する知の第二歌集!
「栞」より
世界との接し方で言うと、没入し切らず、どこか醒めている。かといって冷笑的ではない。謎を含んだ孤独で内省的な知の手触りがある。 -谷岡亜紀
「新しい生活様式」が、服部さんを媒介として、短歌という詩型にどのように作用するのか注目したい。 -河野美砂子
服部の目が、観察する眼以上の、ユーモアや批評を含んだ挑発的なものであることが窺える。 -島田幸典
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】