水飯や黙つて惚れてゐるがよき 吉田汀史【季語=水飯(夏)】

  

  水飯や黙つて惚れてゐるがよき  吉田汀史

季語は「水飯」。もともとは、乾飯を水に漬け食用としたもので、古くから食された。後に夏場に米飯を冷水にかけて食べるようになった。冷蔵技術がなかった時代には、饐えた飯を水で洗い、水に漬かった状態で食べた。現在では、炊き立ての飯を冷水で冷まし、茶漬けのようにして食べる。時には氷などを浮かべ、さらさらとした食感と喉越しの涼味を楽しむ。

掲句は、ひとしきり飲んだ後に恋人の家に行ったら「お腹が空いているのではないですか」と出てきた飯なのだろう。蒸し暑い夜に冷えた水飯とは気が利いている。さらには、夜遅くまで飲んできた男を責めるふうでもなく、ただ黙っている。その時に、「なんて良い女なのだろう」と思ったのだ。その背景にはきっと、過去の恋人の愛情を疎ましく思った経験があるのだろう。昔、交際していた女なら「今日は暑いから水飯が良いと思って作ったの」と押し付けがましいことを言ったとか、「私はあなたにこんなにも尽くしているのに、なんて不誠実な人なのかしら」と言われたとか。

実は、女から慕われることが多い作者なのかもしれない。それとも、昭和気質の亭主関白だったのか、恋に対しては強気な姿勢をみせた。

  夜泳ぐ砂に女を残し置き

  花火みる男の帯に手をかけて

  男なら味噌煮と決めよ秋の鯖

現代の男ならば、女が黙り込むと怖がったり、何を考えているのか分からないと怒ったりするものである。〈黙つて惚れてゐるがよき〉と言えるとは、なかなかのモテ上手だ。また、面倒なことを言われたくない男心を察した女の佇まいも見事である。待っていたとばかりに差しだす冷えた水飯。なにも言わずにただ、さらさらと水飯を啜る男を見つめている。女の愛情は十分に伝わってくる。なんとも憎い男女である。

私もかつては、奥ゆかしい女であった。毎晩のように飲んでは、夜遅く部屋にやってくる男のために夜食を作って待っていた。他の女の香水をまとってきても何も言わなかった。やがて男は怒り出した。「なぜ責めないのか、なぜ嫉妬しないのか」と。さらには「もっと良い男を探せ」とまで言い出した。言われた通り、誠実に私を好いてくれる人を見つけた。別れを切り出すと男は、私を待ち伏せして追い回すようになった。その時になって気が付いた。私はただ、待っている自分に、尽くしている自分に酔っていただけなのだと。黙って惚れていてくれる女ほど怖いものはない。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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