雀蛤となるべきちぎりもぎりかな
河東碧梧桐
(『春夏秋冬』)
恋をすれば女は、夜叉になる。男からしたら、清純な生き物と信じていた女の狂気な一面を知ることになる。この女の変化に恐れおののいているような男とは、訣別するべきである。その一方で、女の狂気の一面を、こんなにも自分を愛してくれたのかと感動してくれる優しい男も存在する。女の恋の重圧に押しつぶされることなく、女の心の闇をちゃんと受け止めてくれる男は、探せばきっといるはず。だが、夜叉になる前に蛤になるのもまた、恋のテクニックである。
女は、自分の掴み取った恋を後悔することはなくひた進む。男は、口説いて関係を持った後、後悔することもある。こんなはずでは、なかったと。女の自己肯定は、凄まじく、関係が成立した後に、酷い男であることが分かってしまっても、そこが魅力と突き進んでしまう。途中下車ができないのも女の哀しさであろう。「こんな男やめろよ」と男が言っても「私しか貴方を愛せる女はいない」とますます燃え上がる。その情熱に引く男もいれば、いじらしいと思う男もいる。「惚れたもん勝ち」という言葉があるが、「惚れたら負け」という言葉もある。どちらが正しいのだろうか。
遙かな昔に恋愛の先輩に教えられた言葉は、「惚れたら男は逃げる」であった。だから「惚れていても惚れていないふりをせよ」とのこと。恋の始めは、雀のように喋っても良いが、恋人関係になったら、蛤のように口を閉じて、男に喋らせ良き理解者となれというような教えであった。
恋を得るためには話術も必要だ。特に日本人はシャイな男が多い。積極的に話しかけて、会話が途切れる不安を抱かせてはいけない。男は、女が喋ってくれると安心するのである。また、女が笑ってくれれば、男も楽しい気持ちとなり、何て気の合う人なのだと思ってくれるであろう。恋が成就し男が心を開き始めたら、とにかく男の話を聞いてあげることが大切である。会話は、話すよりも聞く方が体力がいる。男だって、女の一方的な話ばかりを聞いていたら疲れて去ってしまうかもしれない。
恋の始めは積極的に囀る雀だが、恋が成就した後は、相手の心情を考慮して、沈黙を保つ蛤の術が必要である。急に無口になった女の変化に、男は嫌われたのかと不安を感じ、尽くしてくれることであろう。恋が成就した後、いかにその恋を持続させることができるか、このテクニックをマスターしなければ女はうるさい雀で終わってしまう。良く喋る愛らしい雀から、口を閉ざす蛤となり、求婚された後は、夜叉になっても良いだろう。※蛤の術が通用しない男もいるので要注意。
雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
〈雀蛤となる〉は、七十二候の一つ。秋深くなり里の雀が少なくなった現象を海で蛤となったからと理解したことによるらしい。『出雲風土記』には、蛤の女神である蛤貝比売が法吉鳥(鶯)となり法吉郷に鎮座した物語が記されている。こちらは貝が鳥になる話だが、蛤が鶯となり春となった話とも理解できる。
当該句、最初一読した際は、〈ちぎりもぎりかな〉を「契りも義理かな」と理解してしまった。それはそれで面白いが、「もぎる」という理解が一般的らしい。契ることは、もぎ取るに等しいということか。
人は、自分をさらけ出してくれる人に好感を持つが、あまりにも一方的な話をされると冷めてしまう。恋が成就した後は、女は、硬い貝殻を閉じ、腹の中に砂を留めて、理解して貰えるまで口を閉ざした方が良いのではないだろうか。男が「君の心を知りたい」と言ってくれるまで。これが、策略だと知った時、男の心は、契ったどころではなくもぎ取られることになる。男は、女と契ると多弁になり全て理解して欲しいと望む。女は、その囀りを聞きながら、この恋が正しいのかどうかを判断する。女が雀から無口な蛤に化した時、男の心はもぎ取られるのである。
(篠崎央子)
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
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