圓朝は、単なる怪異の怖さに頼るのではなく、怪談噺にドロドロとした人間心理と因果応報のドラマを導入しました。「真景累ヶ淵」の「真景」には「真実の風景」、そして「神経」、すなわち人間の精神が生み出す恐怖の意味が込められています(岩波文庫の「真景累ヶ淵」の冒頭には、文明開化の世に幽霊話をする理由を語る圓朝の言葉が長々と続きます)。
圓朝が導入したドラマとは、端的に言えば「カネへの執着」と「男女の愛憎」です。この二つの欲望が人生を狂わせ、世代を超えて罪業や因縁が連鎖していく。その系譜を描こうとすれば、物語は長大にならざるを得ないのです。
圓朝の怪談噺が真に描くのは、幽霊そのものの恐ろしさではありません。幽霊を見てしまうほどの精神状態に追い込まれる恐怖心と罪悪感です。人間の心理の機微を描き、ハッピーエンドで涙を誘うのが人情噺だとすれば、バッドエンドに戦慄させる人情噺の変形バージョンが圓朝怪談噺と言えるでしょう。
最後に一話完結で圓朝怪談噺のエッセンスがよく伝わる演目「もう半分」を紹介します。寄席やホール落語でもときどき掛かる噺です。
永代橋のそばに夫婦で営む小さな居酒屋があり、そこへ、毎晩初老の行商人がやってきます。老人は「もう半分くださいな」と一合枡に半分ずつ酒を注文するのが常で、店主が理由をたずねると、「その方が同じ勘定でたくさん飲めた気になるから。貧乏くさい頼み方で申し訳ない」と詫びます。
老人が帰り、店主が店じまいをしようとすると、席に風呂敷包みが残されているのに気付きます。包みを開くと、50両の大金。このカネがあればしがない暮らしから抜け出せる。そう考えた夫婦は、カネを取りに戻ってきた老人に知らぬ存ぜぬを通します。老人は泣きながら「娘が吉原へ身を売って作ってくれたカネだ」と明かしますが、夫婦から追い払われ、落胆のあまり大川へ身を投げてしまいます。
夫婦は50両を元手に店を大きくして商売は順調。さらに子宝にも恵まれます。ところが、生まれてきた赤ん坊は、髪が真っ白、顔には深い皺が刻まれ、歯まで生えていて、あの時の老人そっくり。店主の妻は、その姿を見て衝撃のあまり息を引き取ります。店主は、せめてもの罪滅ぼしに子供を育てることを決め、乳母を雇いますが、みな理由を言わず一晩で辞めてしまう。意を決して店主が一晩中見張っていると、深夜に目を覚ました赤ん坊が油さしから油を茶碗にそそいで飲み始めます。
店主が「おのれ爺ィ、迷ったか」と部屋に飛び込むと、赤ん坊は茶碗を差し出し、
「もう半分くださいな」
オチはなかなかの怖さです。しかし、この噺の聞かせどころはむしろ、残されたカネを見つけたときの夫婦のやり取りです。はじめは逡巡しつつも猫ババを決するに至る心の動きは、人の弱さを鮮やかに描き、その後、戻ってきた老人にシラをきる会話はスリリングなことこの上なし。夫婦を根っからの悪人ではなく、どこにでもいる普通の人として描いているからこそ、「げに恐ろしきは人間かな」と思わされるのです。
一番怖いのは人である。それが圓朝怪談噺の通奏低音です。
たった17音しか使えない俳句の場合、怪談噺のような長大なドラマは描けません。その分、余白によって喚起される想像が怖ろしさを生み出してくれます。人が怖いという意味では、私はこんな句にじわじわと怖さを感じます。
我をわらふ人闇にあり浜千鳥 原石鼎
足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す 西東三鬼
蟻殺すわれを三人の子に見られぬ 加藤楸邨
もう一つ、これは川柳ですが、
人を焼く炉に番号が打ってある 柏原幻四郎
【執筆者プロフィール】
三橋五七(みつはし・ごしち)
蒼海俳句会所属。第70回角川俳句賞次席。
中学1年生のときにたまたまラジオで聴いた十代目金原亭馬生の「抜け雀」に衝撃を受けて以来の落語ファン。
Xアカウント x.com/Goshichi_57
