丘を見てきたと電池を取り換へる 鴇田智哉【無季】


丘を見てきたと電池を取り換へる
鴇田智哉
(句集『エレメンツ』)

「丘を見てきた」に、昔の某番組のよゐこ濱口の「とったど〜!!」のような無邪気さを感じてしまうのは、私だけだと思う。
「電池って何の電池?」と首を傾げる読者も多いだろうが、〈いのちのための電池〉とすんなり脳内変換されてしまうのも、おそらく私だけだと思う。

丘を見てきた。その報告ののち、いそいそと電池を取り換える。この流れに〈ヒトの雰囲気〉を感じる。
どこの丘なのか。なぜ丘を見に行ったのか……謎は多い。(私が勝手に謎を増やしていることは否定しない。)

順当に読めば、旅行中の一場面。丘での景色を撮影し、デジタルカメラの電池を取り換えているのかもしれない。

だが、「電池を取り換へる」が、私をそこから遠ざけてゆく。

もしかすると作中主体は、電池交換を必要とする存在――たとえばアンドロイドたち――なのかもしれない。遠い星のある丘で、電池を交換する、日常のいとなみ。
私には、そんな光景が浮かんできてしまう。

あふむけに泳げばうすれはじめたる/句集『凧と円柱』

仰向けに泳ぐとき、視界は空にひらかれ、頭が進む方向はわからない。私の背泳ぎの記憶は小学生の夏で止まっているが、あの、自分がどこへ向かっているのかわからない、言い表しようのない不安が、すうっとよみがえる。

何が、うすれはじめたのだろう。

先ほどの不安かもしれないし、意識かもしれないし、身体かもしれない。またはそれらすべての境目が、うすれはじめていったのかもしれない。

鴇田によると、句作は〈写生〉を基本にしているという。今回紹介した二句も、そう言われれば、たしかにそのように思える。

〈見えたもの〉に対する自分の感応を、そのまま出す。
けれども、その〈そのまま〉は、鴇田のなかをいちど通った〈そのまま〉である。

だから、鴇田ではない私が読むとき、写生のはずの一句がどこか現実からはずれ、遠い世界へ連れてゆかれることもあるのである。

参照文献
『オトナりぼん』2025年7月 創刊準備第2号
「特集対談 それぞれの視点 鴇田智哉×北大路翼」

(いなば也)


【執筆者プロフィール】
いなば也(いなば・なり)
短詩、俳句 
楽園俳句会会員
X:@poet_Shijyu
note:https://note.com/from40_letters
mail:inabanary@gmail.com


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