蜻蛉のわづかなちから指を去る しなだしん【季語=蜻蛉(秋)】

蜻蛉のわづかなちから指を去る

しなだしん

 幼い頃とんぼを見ると指先をくるくるしながら近づきつかまえようとしたものだが、成功率は低かったような気がする。それでもたくさんつかまえた記憶があるのだがあの時自分はどうやってとっていたのだろう?

くるくるしたらとんぼが目を回すのかと思っていたがどうやらそうではないらしい。確かに俊敏に逃げ去っていくし、昆虫が目を回すというのは命取りになるからそんな機能は備えていなさそうである。素早い動きには敏感だがゆっくりした動きには弱いので遠近感をはかりかねている、というのが一番納得のいく理由だった。

最近では指にとまってくれることが少なくない。これは幼い頃にはなかったことだ。違いがあるとすれば、捕獲するつもりがなくなったということ。ないと見せかけてとるということもない。その心情がわずかながら波動となって伝わっているのだろうか。これは大人になってよかったことのひとつ。つかまえるより指先にとまらせる方がずっと楽しい。

蜻蛉のわづかなちから指を去る

 指先にとまった蜻蛉。指を動かさないようじっと眺めていてもいつかはとんでいってしまう。ついに飛び上がる瞬間、蜻蛉が踏み込む力をわずかながら感じたのだ。人間にとってはわずかでも、蜻蛉にとっては全力なのかもしれない。転じて、人間が全力でやっていることももっと上の次元から見れば「わづかなちから」にすぎないのだろう。

 「わづかなちから」のかなづかいがはかなさを体現している。「僅かな力」にすると、自然の原理で少しだけ与えられた力がある、という方向に思考が傾く。

 そんな経験は指に蜻蛉をとめたことのある人なら誰でもしているはずだが、この一瞬の触覚は大いなる発見である。

 ほかにも好きな句を。

   真つ白な雲湧く父の日なりけり

   文書いて手のよごれたるさくらの夜

   初夏のピアノはだかにされてゐる

   しばらくは並走の窓クリスマス

   遠足の児に水筒のついてゆく

 最近とんぼをつかまえないのは幼い頃にとりすぎてしまったことへの罪悪感がある。とんぼの皆さん、もうつかまえないから安心して近寄ってきてください。

『魚の栖む森』(2023年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔169〕赤富士のやがて人語を許しけり 鈴木貞雄
>>〔168〕コスモスの風ぐせつけしまま生けて 和田華凛
>>〔167〕【林檎の本#4】『言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)
>>〔166〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
>>〔165〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
>>〔164〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
>>〔163〕短夜をあくせくけぶる浅間哉 一茶
>>〔162〕蟬しぐれ麵に生姜の紅うつり 若林哲哉
>>〔161〕手のひらにまだ海匂ふ昼寝覚 阿部優子
>>〔160〕はらはらと水ふり落とし滝聳ゆ 桐山太志
>>〔159〕夏蝶や覆ひ被さる木々を抜け 潮見悠
>>〔158〕菖蒲園こんな地図でも辿り着き 西村麒麟
>>〔157〕夏の暮タイムマシンのあれば乗る 南十二国
>>〔156〕かきつばた日本語は舌なまけゐる 角谷昌子
>>〔155〕【林檎の本#3】中村雅樹『橋本鷄二の百句』(ふらんす堂、2020年)
>>〔154〕仔馬にも少し荷をつけ時鳥 橋本鶏二
>>〔153〕飛び来たり翅をたゝめば紅娘 車谷長吉
>>〔152〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
>>〔151〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
>>〔150〕山鳩の低音開く朝霞 高橋透水
>>〔149〕蝌蚪一つ落花を押して泳ぐあり 野村泊月
>>〔148〕春眠の身の閂を皆外し 上野泰
>>〔147〕風なくて散り風来れば花吹雪 柴田多鶴子
>>〔146〕【林檎の本#2】常見陽平『50代上等! 理不尽なことは「週刊少年ジャンプ」から学んだ』(平凡社新書)
>>〔145〕山彦の落してゆきし椿かな 石田郷子
>>〔144〕囀に割り込む鳩の声さびし 大木あまり
>>〔143〕下萌にねぢ伏せられてゐる子かな 星野立子
>>〔142〕木の芽時楽譜にブレス記号足し 市村栄理
>>〔141〕恋猫の逃げ込む閻魔堂の下 柏原眠雨
>>〔140〕厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣
>>〔139〕立春の佛の耳に見とれたる 伊藤通明
>>〔138〕山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子
>>〔137〕湯豆腐の四角四面を愛しけり 岩岡中正
>>〔136〕罪深き日の寒紅を拭き取りぬ 荒井千佐代
>>〔135〕つちくれの動くはどれも初雀 神藏器
>>〔134〕年迎ふ山河それぞれ位置に就き 鷹羽狩行
>>〔133〕新人類とかつて呼ばれし日向ぼこ 杉山久子
>>〔132〕立膝の膝をとりかへ注連作 山下由理子
>>〔131〕亡き母に叱られさうな湯ざめかな 八木林之助【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔152〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
>>〔151〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
>>〔150〕山鳩の低音開く朝霞 高橋透水
>>〔149〕蝌蚪一つ落花を押して泳ぐあり 野村泊月
>>〔148〕春眠の身の閂を皆外し 上野泰
>>〔147〕風なくて散り風来れば花吹雪 柴田多鶴子
>>〔146〕【林檎の本#2】常見陽平『50代上等! 理不尽なことは「週刊少年ジャンプ」から学んだ』(平凡社新書)
>>〔145〕山彦の落してゆきし椿かな 石田郷子
>>〔144〕囀に割り込む鳩の声さびし 大木あまり
>>〔143〕下萌にねぢ伏せられてゐる子かな 星野立子
>>〔142〕木の芽時楽譜にブレス記号足し 市村栄理
>>〔141〕恋猫の逃げ込む閻魔堂の下 柏原眠雨
>>〔140〕厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣
>>〔139〕立春の佛の耳に見とれたる 伊藤通明
>>〔138〕山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子
>>〔137〕湯豆腐の四角四面を愛しけり 岩岡中正
>>〔136〕罪深き日の寒紅を拭き取りぬ 荒井千佐代
>>〔135〕つちくれの動くはどれも初雀 神藏器
>>〔134〕年迎ふ山河それぞれ位置に就き 鷹羽狩行
>>〔133〕新人類とかつて呼ばれし日向ぼこ 杉山久子
>>〔132〕立膝の膝をとりかへ注連作 山下由理子
>>〔131〕亡き母に叱られさうな湯ざめかな 八木林之助
【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔152〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
>>〔151〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
>>〔150〕山鳩の低音開く朝霞 高橋透水
>>〔149〕蝌蚪一つ落花を押して泳ぐあり 野村泊月
>>〔148〕春眠の身の閂を皆外し 上野泰
>>〔147〕風なくて散り風来れば花吹雪 柴田多鶴子
>>〔146〕【林檎の本#2】常見陽平『50代上等! 理不尽なことは「週刊少年ジャンプ」から学んだ』(平凡社新書)
>>〔145〕山彦の落してゆきし椿かな 石田郷子
>>〔144〕囀に割り込む鳩の声さびし 大木あまり
>>〔143〕下萌にねぢ伏せられてゐる子かな 星野立子
>>〔142〕木の芽時楽譜にブレス記号足し 市村栄理
>>〔141〕恋猫の逃げ込む閻魔堂の下 柏原眠雨
>>〔140〕厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣
>>〔139〕立春の佛の耳に見とれたる 伊藤通明
>>〔138〕山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子
>>〔137〕湯豆腐の四角四面を愛しけり 岩岡中正
>>〔136〕罪深き日の寒紅を拭き取りぬ 荒井千佐代
>>〔135〕つちくれの動くはどれも初雀 神藏器
>>〔134〕年迎ふ山河それぞれ位置に就き 鷹羽狩行
>>〔133〕新人類とかつて呼ばれし日向ぼこ 杉山久子
>>〔132〕立膝の膝をとりかへ注連作 山下由理子
>>〔131〕亡き母に叱られさうな湯ざめかな 八木林之助


>>〔130〕かくしごと二つ三つありおでん煮る 常原拓
>>〔129〕〔林檎の本#1〕木﨑賢治『プロデュースの基本』
>>〔128〕鯛焼や雨の端から晴れてゆく 小川楓子
>>〔127〕茅枯れてみづがき山は蒼天に入る   前田普羅
>>〔126〕落葉道黙をもて人黙らしむ   藤井あかり
>>〔125〕とんぼ連れて味方あつまる山の国 阿部完市
>>〔124〕初鴨の一直線に水ひらく 月野ぽぽな
>>〔123〕ついそこと言うてどこまで鰯雲 宇多喜代子
>>〔122〕釣銭のかすかな湿り草紅葉 村上瑠璃甫
>>〔121〕夜なべしにとんとんあがる二階かな 森川暁水
>>〔120〕秋の蚊の志なく飛びゆけり 中西亮太
>>〔119〕草木のすつと立ちたる良夜かな 草子洗
>>〔118〕ポケットにギターのピック鰯雲 後閑達雄
>>〔117〕雨音のかむさりにけり虫の宿 松本たかし
>>〔116〕顔を見て出席を取る震災忌 寺澤始
>>〔115〕赤とんぼじっとしたまま明日どうする 渥美清
>>〔114〕東京の空の明るき星祭 森瑞穂
>>〔113〕ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火
>>〔112〕口笛を吹いて晩夏の雲を呼ぶ 乾佐伎
>>〔111〕葛切を食べて賢くなりしかな 今井杏太郎
>>〔110〕昼寝よりさめて寝ている者を見る 鈴木六林男

関連記事