雨音のかむさりにけり虫の宿
松本たかし
朝5時くらいに目が覚めることがある。そのまま二度寝することもあるが、睡眠が足りていれば活動を開始する。先日そんな朝を迎えた。前夜に下書きしてあった手紙を清書して仕上げる。手紙を書き上げるのは気持ちが良い。初秋の朝の日差しが爽快感を増幅させてくれる。まさに〈新涼や起きてすぐ書く文一つ 立子〉の味わい。新涼はこんなところにもあるのだと実感した。
偶然の行動や出来事が名句の世界に重なるのは楽しい。俳句というフィルターを通して季語だけでなくその句の作者にぐっと近づけるからだ。同じ感覚の共有に寄せに行くのも良いが、偶然となると「感性が近い?」と錯覚したりして、より近く感じられる。なんとも思っていなかった人が夢に出てきて以来意識してしまう感覚に近い。
別の日は雨音のなかに目覚めた。結構降っている。それでも虫の声がやむことはない。雨音と虫の声で俳句が作れるかと思ったがどう考えても大量に類句があるだろう。しかも、こんな一句がある。
雨音のかむさりにけり虫の宿
「虫の宿」の「宿」は家の戸口のあたりや庭先のことをさす。「宿」だけなら宿泊施設の意味もあるが「虫の宿」なら家で聞く虫の声として鑑賞したい。家の中で虫の声に耳を傾けていると、小ぶりだった雨が次第に強さを増し、雨音もましてくる。しかし、虫の声を消すほどではない。強い雨でも鳴いている虫はいるものだ。ましてや家であれば周囲に雨をしのげる場所もたくさんある。雨音も虫の声も大きな音だが、調和することはあっても互いを邪魔したり打ち消したりすることはない。2種類同時に耳に入っても不快感を覚えることのない音。
家のなかに満ちる虫の声に雨音がかぶさる。「かむさり」で辞書をひくと「神去る」(かむさる=高貴な人が亡くなる意)しか出てこない。「選ぶ」を「選む」というように「かぶさる」の音をやわらげた表現と考えるべきであろう。充分にニュアンスが伝わってくる。同じ情景を描くとしても「かむさる」と「かぶさる」では圧迫感が違う。ま行のたたみかけは雨音に個性を与える。「かむさる」の音の優しさから察するに雨音も大粒で激しいものではなさそうである。
俳句にしようとした情景に先行句があると残念に思うこともあるが、今回は良い句との結びつきが(自己満足ではあるものの)感じられ、知っている句が自分だけの特別な句になった。良い句を知っているということは日々の一つ一つの経験に厚みが加わるということだ。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
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