

評伝には、自伝ではとばしてしまうようなささいなエピソードとの出会いがある。人物像が見えるのはそういう一瞬だ。しかもそのエピソードを記憶し記録する人が近くにいることが必須である。
緒方貞子(1927-2019:日本人初の国連難民高等弁務官、上智大学名誉教示などを歴任)という語り継ぐべき人物の言動を的確に記録し、難民の基礎知識も含め読みやすく綴ってくれたのが本書である。
著者の中村氏は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)での勤務を経て緒方さんのパーソナル・アシスタントを務めていた。現在は東京外国語大学の非常勤講師。同窓ということと時折俳句も楽しまれているというご縁を得てこの本にたどり着いた。
緒方さんと仕事が出来たらそれは最高だったに違いない。本書には、共に生きる時間があった著者ならではの気づきがある。難民高等弁務官としての言葉だけではなく日常のやりとりに感じられる生き方の表れを的確に記録、分析してある。この分析が魅力なのだ。
「普段から言い方に気をつけなくちゃね」と緒方さんに言われたエピソードからどんな習慣を身につけるかに配慮することの大切さへと思い至ったくだりには俳句に携わる者として身のひきしまる思いがした。
意外だったのは、緒方さんが「国際貢献」という言葉が好きではなかったという話である。のちに日本の子どもたちに向けて次のように語っている。
一番大事なことは、「難民、あぁ、かわいそう、やってあげましょう」ではなく、「仲間」と考えないとね。(中略)勉強もできない、家にもいられなくなって、逃げなくてはならなかった人たちの希望も知りたい、そしてお友だちになっていきましょうという、そちらの感じのほうが単なる”チャリティ”ではなくて、私は必要だと思います。(『難民 refugee』23、2002年第4号)
「国際貢献」という言葉にわずかながら上下関係のニュアンスが含まれていることに気づかされる。現場に赴き、生きるための手助けをするその当事者だからこその把握である。
難民への関心ゼロからのスタートで良い。評伝の魅力を俳句以外のフィールドでも味わってみてはいかがであろうか。
※この本の印税はすべてUNHCRに寄付されます。
(吉田林檎)

【林檎の本 #7】
中村恵『難民に希望の光を 真の国際人緒方貞子の生き方』平凡社刊(2022年)
著者:中村恵(なかむら・めぐみ) 1960年生まれ。東京都出身。東京外国語大学を卒業後フランスに留学。1989年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に就職。ジュネーブ本部、駐日事務所勤務の後、ミャンマーでの活動に従事。2000年退職、翌年筑波大学大学院修士課程カウンセリングコース修了。NPO法人国連UNHCR協会の設立に関わり、勤務。緒方貞子が国連難民高等弁務官を退任後はパーソナル・アシスタントを務めた。
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】

【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔203〕傘寿とて緑陰力の身につきし 宮坂静生
>>〔202〕柿若葉廊下つめたく拭き上げて 坂本宮尾
>>〔201〕声かけし眉のくもれる薄暑かな 原裕
>>〔200〕花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵 杉田久女
>>〔199〕古き書と旅してゐたり亀鳴けり 廣瀬町子
>>〔198〕落ちさうに咲き咲くやうに落椿 田丸千種
>>〔197〕バスを待つ人と桜を仰ぎをり 黛まどか
>>〔196〕車座にひとり見知らぬ花衣 土肥あき子
>>〔195〕ひとひらの花と乗りたる無人駅 歌代美遥
>>〔194〕地を歩く小鳥の逃げぬ遅日かな 遠藤由樹子
>>〔193〕火の中に草立ち上がる野焼かな 亀井雉子男
>>〔192〕春暁の眠るでもなき刻しばし 吉田成子
>>〔191〕己が傷を舐めて終りぬ猫の恋 清水基吉
>>〔190〕ドッジボールずどんとバレンタインの日 なつはづき
>>〔189〕裏返へりては春の水らしくなり 山口昭男
>>〔188〕【林檎の本#6】川添愛、ふかわりょう『日本語界隈』
>>〔187〕焚火する声が大きくなつてゆく 廣瀬悦哉
>>〔186〕丹頂のくれなゐ黒き寒さかな 飯島晴子
>>〔185〕冬の月かたちあるもの照らしけり 福島せいぎ
>>〔184〕お降りといへる言葉も美しく 高野素十
>>〔183〕駅で飲むコーンスープや十二月 白井飛露
>>〔182〕しぐるるや駅に西口東口 安住敦
>>〔181〕朝の庭けふの落葉のために掃く 片山由美子
>>〔180〕小春日や石を噛み居る赤蜻蛉 村上鬼城
>>〔179〕【林檎の本#5】『会話の0.2秒を言語学する』(新潮社、2025年)
>>〔178〕能登時雨見たさに来る雨男 森羽久衣
>>〔177〕掌に猫が手を置く冬日かな 対中いずみ
>>〔176〕行く秋や抱けば身にそふ膝頭 太祇
>>〔175〕蛇口みな運動会の空を向く 堀切克洋
>>〔174〕うなじてふ寂しきところ稲光 栗林浩
>>〔173〕ぬかるみか葛かわからぬものを踏む 板倉ケンタ
>>〔172〕大鯉のぎいと廻りぬ秋の昼 岡井省二
>>〔171〕紙相撲かたんと釣瓶落しかな 金子敦
>>〔170〕蜻蛉のわづかなちから指を去る しなだしん
>>〔169〕赤富士のやがて人語を許しけり 鈴木貞雄
>>〔168〕コスモスの風ぐせつけしまま生けて 和田華凛
>>〔167〕【林檎の本#4】『言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)
>>〔166〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
>>〔165〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
>>〔164〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
>>〔163〕短夜をあくせくけぶる浅間哉 一茶
>>〔162〕蟬しぐれ麵に生姜の紅うつり 若林哲哉
>>〔161〕手のひらにまだ海匂ふ昼寝覚 阿部優子
>>〔160〕はらはらと水ふり落とし滝聳ゆ 桐山太志
>>〔159〕夏蝶や覆ひ被さる木々を抜け 潮見悠
>>〔158〕菖蒲園こんな地図でも辿り着き 西村麒麟
>>〔157〕夏の暮タイムマシンのあれば乗る 南十二国
>>〔156〕かきつばた日本語は舌なまけゐる 角谷昌子
>>〔155〕【林檎の本#3】中村雅樹『橋本鷄二の百句』(ふらんす堂、2020年)
>>〔154〕仔馬にも少し荷をつけ時鳥 橋本鶏二
>>〔153〕飛び来たり翅をたゝめば紅娘 車谷長吉
>>〔152〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
>>〔151〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
>>〔150〕山鳩の低音開く朝霞 高橋透水
>>〔149〕蝌蚪一つ落花を押して泳ぐあり 野村泊月
>>〔148〕春眠の身の閂を皆外し 上野泰
>>〔147〕風なくて散り風来れば花吹雪 柴田多鶴子
>>〔146〕【林檎の本#2】常見陽平『50代上等! 理不尽なことは「週刊少年ジャンプ」から学んだ』(平凡社新書)
>>〔145〕山彦の落してゆきし椿かな 石田郷子
>>〔144〕囀に割り込む鳩の声さびし 大木あまり
>>〔143〕下萌にねぢ伏せられてゐる子かな 星野立子
>>〔142〕木の芽時楽譜にブレス記号足し 市村栄理
>>〔141〕恋猫の逃げ込む閻魔堂の下 柏原眠雨
>>〔140〕厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣
>>〔139〕立春の佛の耳に見とれたる 伊藤通明
>>〔138〕山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子
>>〔137〕湯豆腐の四角四面を愛しけり 岩岡中正
>>〔136〕罪深き日の寒紅を拭き取りぬ 荒井千佐代
>>〔135〕つちくれの動くはどれも初雀 神藏器
>>〔134〕年迎ふ山河それぞれ位置に就き 鷹羽狩行
>>〔133〕新人類とかつて呼ばれし日向ぼこ 杉山久子
>>〔132〕立膝の膝をとりかへ注連作 山下由理子
>>〔131〕亡き母に叱られさうな湯ざめかな 八木林之助
