黄落す光が重たすぎるとき 月野ぽぽな【季語=黄落(秋)】


黄落す光が重たすぎるとき

月野ぽぽな


私には、俳句を作るときに「〇〇す」をついつい使ってしまうという癖があります。基本的には口語で作句するというスタンスをとっていながら、「〇〇する」にはない柔らかさ、可愛らしさやいじらしさに心をくすぐられ早6年。スマートフォンのメモ帳には、常に「〇〇す」で使いたい言葉が大量にストックされており、気がつけば句会に「〇〇す」の句を出してしまっています。家族LINEに「8時に帰宅す〜」などと送り、日常的に使用しているからでしょうか。私の中で「〇〇す」は、文語でもあり口語でもある不思議な言葉として日常の中に存在しています。

それでは文体に注目して掲句を見てみましょう。まず上五の「黄落す」。これは言わずもがな「黄落」という名詞が動詞化した形の文語です。一方で、中七下五の「重たすぎる」は口語ですね。強いて文語にするならば「重たすぐる」になるでしょうか。こちらの連載では、これまでも文語と口語が一句の中に共存する句をいくつかご紹介してきましたが、それらと同様に、掲句も二つの文体が混ざり合うことで、独自の世界を創り上げている作品だといえます。それでは、例によって「黄落す」を別の形に置き換えて検討してみます。まずはこちら。

黄落や光が重たすぎるとき

「黄落」+切れ字の「や」に置き換えたバージョンです。俳句の型としてはこちらの方がスタンダードなのですが、うーん、なんというか、コレジャナイ感があります。葉が光を受け止め、黄色く色づく。そして、その取り込んだ光の重さに耐えきれなくなり、葉が地上へ落ちる。光に重さを見出した感性に加えて、この因果関係の仮説を倒置法で書いているのがこの句の面白いところだとすれば、改変後のバージョンでは上五と中七下五が切れ字の「や」によって分断され、魅力が半減してしまっています。したがって、前回ご紹介した新蕎麦の句では「や」が大いに活躍していましたが、掲句においては「〇〇す」の方に軍配が上がるといえるのではないでしょうか。

続いてはこちら。

黄落する光が重たすぎるとき

わざわざ字余りにして口語に直してみました。原句と比較してみると、どちらも終止形ではあるのですが、その読後の余韻には差があります。「○○す」は言い切られた感が弱く、「○○」にあたる動作が継続しているような印象を受けるからです。

そしてこれは個人的な見解ですが、この二つの性質の違いは、音楽における終止形の概念で説明ができるのではないかと考えています。音楽における終止形は、セクションの区切りや曲の終わりを知らせる和音の進行のことで、その中には全終止、偽終止、変終止、半終止など複数の種類の終止形が存在し、これらは終止感の大きさによって更に細かく分類されます。(正直に申し上げると、この連載を始めるまで日本語文法以外に終止形という概念があることを知らなかったのですが、)この終止感の大きさという考え方は、俳句の切れの強弱の考え方に近いと思っています。

それでは、「〇〇する」と「〇〇す」は、音楽の終止形でいうと何に分類すればよいのか。私の考えでは、「〇〇する」は全終止の中の完全終止で、「〇〇す」は全終止の中の不完全終止に分類されます。言葉だけではイメージが湧かない方は、YouTubeなどで実際の音を聴いて比較してみてください。同じ全終止でも、完全終止と不完全終止では受ける印象が少し異なります。例えるならば、完全終止はライブが完全に終わったときの感じで、不完全終止は、ライブはとりあえず終わったものの、まだアンコールがありそうといった感じでしょうか。つまり、不完全終止である「○○す」は、ある程度の終止感を出しつつ、継続する感じも出したいときに使う終止形で、「○○する」に簡単に置き換えはできないのです。

この二つの改変例から、掲句が「黄落す」であることの魅力をおわかりいただけたでしょうか。きっと私は今後も、口語俳句を作っていますという顔をしながら、「○○す」を使い続けるのだろうと思います。

生きている中で、誰かを眩しいと思う瞬間はよくあります。ステージに立っているアイドル、オリンピアン、若くして成功したベンチャー企業の社長。彼らはあまりにも強い光を放っていますが、遠い存在である彼らの光は、長い距離を超え、柔らかな日射しとなって私たちのもとに届きます。そして私たちはその光によって光合成を行い、生きるエネルギーを得ています。

一方で、自分の身近な人が放つ光は時に私たちの葉緑体を破壊します。たとえば、仕事の愚痴を言い合っていた同僚が海外留学のために退職するときに感じる光や、同じ句会の同世代の仲間が大きな賞をとったときに感じる光。人は人、自分は自分と割り切れたらいいのですが、そんな彼らの光を受け止め切れなくなったとき、私たちははらりと黄落してしまいます。しかしその落ちていく瞬間にこそ、黄落ならではの美しさが現れるというのは皮肉なものです。

深読みのしすぎではないかと思う部分もありますが、単に映像としてだけではなく、自分に引き寄せて掲句を読むと、選ばれなかった者たちに寄り添ってくれる句なのではないかと思え、過去の黄落してしまった自分が救われる気がするのです。

さて、早いもので、8月に始まった短期連載、斎藤担当回は本日で最後の更新となりました。

全9回、好きな俳句や好きな俳句の文体について好きに書かせていただきましたが、この連載で皆さまに何か一つでも気づきがあったなら幸いです。

またどこかでお会いしましょう。2ヶ月間ありがとうございました!

月野ぽぽな句集『人のかたち』より)

斎藤よひら


【執筆者プロフィール】
斎藤よひら(さいとう・よひら)
1996年 岡山県にて生まれる。
2018年 大学四年次の俳句の授業をきっかけに作句を始める。
第15回鬼貫青春俳句大賞受賞。
2022年 「まるたけ」に参加。
2023年 第15回石田波郷新人賞角川『俳句』編集長賞受賞。
2024年 「青山俳句工場05」に参加。

◇E-mail:kaodori1121@gmail.com
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2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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