女に捨てられたうす雪の夜の街燈 尾崎放哉【季語=雪(冬)】


女に捨てられたうす雪の夜の街燈

尾崎放哉
(『尾崎放哉選句集』)


 女に捨てられた男ほど魅力的なものはない。傷つき苦悩する横顔、酒を飲んで自暴自棄になったかと思うと、急に「俺が悪かった」と反省し始める。この反省が続かないから捨てられたダメな奴なのだが、どうにも放っておけない。うらぶれた姿が母性本能をくすぐる。そして男は、拾ってくれた女を傷つけ、捨てられるという恋の螺旋が永遠に続くのだ。

 女性は、過去の恋を引きずらないと言われている。女性は、自分自身が納得のできる別れであれば、あっさりと過去を切り捨てることができる。女性が恨みがましく追いかけるのは、別れに納得できない時である。悔恨を残さぬよう、納得のゆくまで追いかけてしまう。それが犯罪になったとしても、終わってしまえば忘れてしまうのだ。次の人生を生きることに切り替えてしまう。女性が過去の恋にこだわるのは、自分に反省すべき態度があった時や、どうしようもない世間の事情があった時である。恋という甘い夢から覚めてしまえば、恋に酔って尽くしすぎたことや、男性の横柄な態度に我慢していた自分が許せなくなる。時には、相手に不幸の手紙を送ることもあるだろう。だけれども、女性は理不尽な恋と訣別するたびに強くなり、明日への糧とする。

 男性はどうも違うようだ。女性に愛されているということに甘え、横柄な態度をとり続けていたにも関わらず、別れを告げられると急に寂しくなってしまう。そして、男性は反省することを知らない。過去の恋を引きずりながらも、同じ過ちを何度も繰り返す。女性とは、脳の構造が違うとしか言いようがないのだが、過去を踏まえた上で生まれ変わるなんて発想はない。男性とは、過去の恋の罪を知ったうえで、傷つくことを承知で愛してあげなければならない生き物なのである。

 大学時代、ショットバーでアルバイトをしていた。カウンターで不器用にシェイカーを振り、話し下手な若き私ではあったが、常連さんからは、沢山の人生のお話を伺った。

 マスターの同級生で、翳のある横顔が美しい男性客がいた。営業マンとして成績を伸ばし主任になった頃、高校の同級生と婚約をした。高校時代は、お互いに惹かれ合いながらも交際には至らなかったが、成人式の日に再会し愛を深めていったという。数年間の交際期間中には、男性の勤務態度の悪さから解雇寸前になったり、浮気の発覚により別れたりしたこともあったという。そんな荒浪を乗り越え、男性は会社での地位を確立し、双方の両親の同意も得て、ちょっと無理をした高価な婚約指輪も贈ったという。ところが、主任になった男性は、会社の女子社員と酔った勢いで関係を持ってしまった上に、その女子社員に好意を持っていた上司と殴り合いの喧嘩をし、会社を解雇されてしまう。当然のことながら、婚約は解消となる。

 クリスマスが終わった後の雪の日であった。大雪の予報もあり、ショットバーには、その男性客が一人酔いつぶれていた。事情を知っている従業員は、「自業自得でしょ」と言いながら高いワインを開けた。客が来ないことを良いことに、男性の奢りということで私も血より濃い色をしたワインを数杯飲み干した。

 男性は語る。「あの日は、忘年会で部下の女子社員がずっと隣にいた。その子の気持ちも知っていたし、独身の上司がその子を狙っているのも知っていた。だけれども、婚約者との結納の後に、家柄の違いなどで、自分と両親が卑屈な思いをさせられ、心が荒んでいたのだ。」

 同情すべきところはあるが、自分の荒んだ心を紛らわすために、婚約者がいながら純情な女子社員に手を出してしまった罪は重い。何よりも成人式の日から交際し、結婚適齢期を過ぎるまで待たせた婚約者を傷つけたことは、火あぶりの刑に値する。婚約者は、浮気を重ねつつ奔放な生活を送ってきた男性を支え続け、社会的地位を確立させるまで尽くしていたのだから。捨てられて当然だ。

 酔いどれとなった男性は、会計を済ませショットバーを出たが、入り口で倒れてしまう。私が駆け寄ると、長めの前髪が目を隠し彫りの深い鼻を際立たせた。淡い街灯に照らし出された横顔は、この世で最も美しい彫刻に見えた。降り出した雪がすり切れたコートの袖に積もってゆく。手袋をしてない指を温めなければと手を握ると、男性は思いもしない力で私の身体を引き寄せた。心臓がドクリとした。この人を守らなければ、包まなければいけないと思った。その瞬間、マスターがやってきて「従業員室で少し寝かせるから、担ぐの手伝って」と言った。従業員室のソファーで眠る男性の手を握っている私にマスターが言う。「今日はもう上がりなさい。此奴は俺が送ってくから。」

 あの時、マスターが来なければどうなっていたのだろう。積もり始めた雪の中で私は何をしようとしていたのだろう。分からないまま終わってしまった方が良いこともあるのだ。

  女に捨てられたうす雪の夜の街燈   尾崎放哉

 女に捨てられた男が、雪の降りはじめた街灯の下でふらついている。そんなの三文小説にもなりゃしない。繁華街ではよくある光景だ。女に捨てられたことを堂々と詠んでも格好がつくのは放哉だからである。惨めな思いを抱え、うっすらと積もりはじめた雪の中に佇む男。雪に滲む街灯が影を生み、さらに惨めにさせる。このウジウジとした感じが魅力的なのだ。〈うす雪〉なのもまた、都会の雪を思わせ、死にきれないしたたかさを感じさせる。寂しい街灯が自己陶酔に陥った男の姿を引き立たせている。こんな男に恋をしてはいけない。だけれども、愛に絶望している姿は、限りなく美しい。しかもその男が奔放な人生を送り、奔放な俳句を詠んでいる放哉なら、ちょっと失恋の痛みを癒やしてあげたいなとも思ってしまう。それが、地獄のような恋の始まりだったとしても。

篠崎央子


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


【篠崎央子のバックナンバー】
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