をちこちに夜紙漉とて灯るのみ
阿波野青畝
「紙漉」には、楮や雁皮、三椏などの材料となる樹皮と、それをさらすための流れが必要となるため、和紙の産地は山峡などに多いのだという。冬とあって、木々もすっかり枯れているから、遠景にも家の明かりが点々と見えたのであろう。
純粋に写生句としてとれば、本当にその点在する「灯」が描き出されるのみであって、ほかになにも映し出されない。作者の目にここまで何もモノを映さない句の形は珍しいように思うが、実際、山峡の夜というのはそういう深い闇がずっと広がってゆくものであるのだろう。
しかし、この句はあくまでも一物の、ひとつの景として詠まれてはいるけれども、じつは非常に取り合わせ的な側面も持ち合わせているといえよう。
それというのも、一句の比重は明確に「夜紙漉」に置かれているためである。そうであれば、山峡の暗い夜に点々と明かりの灯る様が素描されつつ、そこに、つめたく澄んだ冬の水を用いて黙々とうつくしい和紙を漉いていくイメージが立ち現れて、まさしく二物衝撃の様相であるといえよう。
青畝はこの句を自解において次のように述べる。なお、以下は自解の全文であることをあらかじめ補足しておく。
吉野の国栖、高野の下古沢とかで見ることのある夜景である。
この句は今西宮市が編入した塩瀬における写生句である。昔蓮如上人が塩瀬御坊に留錫されて、産業のない住民に越前の製紙法を教えたのが因で起った家内工業であると聞く。今は一軒しかやっていないそうで、和紙漉はとても算盤にあわぬ仕事であろう。
谷川の音だけ耳につく冬の夜の渓谷に数点の灯影がもれる。時をおしんでつづける夜業の灯のようだ。実際の和紙漉を見ない人には分らないほど、紙漉といういとなみの侘しさは他にあるまい。手足がこごえてかじかむのを我慢する零細な夜の仕事は気の毒に思える。私はそうしたいとなみの村人に心を寄せるとき、異常な詩心を昂らせるのであった。
注目すべきは、「実際の和紙漉を見ない人には分らないほど、紙漉といういとなみの侘しさは他にあるまい。手足がこごえてかじかむのを我慢する零細な夜の仕事は気の毒に思える。私はそうしたいとなみの村人に心を寄せるとき、異常な詩心を昂らせるのであった」という述懐であろう。ここではまさに青畝が「実際の和紙漉」を見たときの話が展開されているのであり、「手足がこごえてかじかむのを我慢する零細な夜の仕事」と、その紙漉の様をある程度具体的に立ち上げているのである。前半部のほとんども「紙漉」についての説明に終始していることからも、季語「紙漉」が一句のたしかな核であることは明らかである。
ところで、青畝は、一句のなかで視点をミクロからマクロへ、あるいはその逆でマクロからミクロへ、といった風な、描写の距離感の移動に絶妙の感覚を持つ人であろうと思う。もちろん、俳句の上手とされる人は全員、そうしたカメラのズームイン、ズームアウトのごとき視点移動などお手のものではあるのだが、青畝のそれはことさらに鮮やかであって、また、青畝句全体の傾向としても、佳句にそうしたものが多いように思う。
たとえば、
道作りみなひだるしやみちをしへ
案山子翁あちみこちみや芋嵐
大阪の煙おそろし和布売
などがまずそれである。いずれも青畝の有名句といって差し支えないものであろう。
視点の動きの小さなものから並べていったつもりであるが、道普請の人々全体の「ひだるさ」を広く捉えたのち、小さく活発な「みちをしへ」に視線の収束していく様は「道」という語の言語的な重なりの面白さにとどまらない、見事な対照関係が描き出されている。
二句目は「芋嵐」が青畝の造語であるとして語られることの多い句であるが、ここでは一度置く。風に吹かれて様々な方角へ頭を向ける「案山子翁」を示しておいて、その周囲、芋畑では、芋の大きな葉がやはり同様にはげしく吹かれているのだ、という様子を描く一点においても大きな魅力があるといえよう。
三句目、こちらはむしろ漸次的な視点の動きが見られて、上五「大阪の」により、まず大阪の街全体が想起される。そして視線は空を見上げてスケールを保ちつつ、最後に「和布売」というごく生活的な、それでいて「おそろし」き「煙」とはきわめて対照的な存在に定まるのである。
そうした距離感の観点からいえば、三句目と同趣でありながら、その極めつけともいうべき句が次である。
葛城の山懐に寝釈迦かな
葛城山、その山懐、そこに建つ寺院、そこで行われる涅槃会、そこへ据えられた寝釈迦像、という具合に全く見事に焦点が絞られていく。言わずと知れた青畝の名句である。
このような、視点の自在さが青畝の句にはあって、そうして視点が大きく引いた時に土地の名前が出てくるのだとすれば、それがそのまま青畝の地名を詠み込むことの巧みさの一因になっているようにも思うのだが、話が逸れすぎてしまうため、別の機会を得て論じることとしたい。
ともかく、そのような焦点の絞り方が「をちこちに」の句にもやはりあって、途中に「夜紙漉とて」と言うことで、その「灯る」光にぐっと視線を近づけていくような感覚がある。
しかしながら、この句が他の句と決定的に異なるところとして、単純にズームイン、ズームアウトの動きだけでは視点の動きを説明できない点があろう。一句全体は山峡の夜の様子を遠景に捉えたものであるのに対し、「紙漉」は明確に室内で行われているのがそれであって、ピントの動きだけでは説明できず、単一の視点からは決して観測できないのである。
もちろん「灯る」のが見えているということは、光が窓からのぞいていることを示すものではあるが、「をちこちに」と家々を大きな視点で捉えておきながら、その作者の目が窓を越えて紙漉に迫ったのだ、とはまさか言えないであろう。
とはいえ、「夜紙漉」はあくまで山峡に「灯る」ものを見て青畝が想起した、あくまで心中の事象である、という見方はたしかに成立する。
青畝には他にもそうした手法により成立している句があって、
目つむれば蔵王権現後の月
などはその最たる例であろう。
この句は「目つむれば」で切るか、「蔵王権現」で切るかによって句意が異なるが、「目つむれば」で切って、十三夜の月の光を受けてかつて見た蔵王権現を回想している句として読むのが良いだろう。あえて長々と説明はしないが、大変にすぐれた句であると思う。
しかし、この場合も「蔵王権現」の巨大な存在感が重要である。ただ回想の、あるいは感懐としての不確かな形象というよりも、実景の「後の月」と並んでたしかに「蔵王権現」が屹立している句として捉えることができよう。「目つむれば」という措辞が、かえって「蔵王権現」をたしかなものとしている点は非常に興味深い。
さて、それをふまえて「をちこちに」の句に話を戻すと、「夜紙漉」が青畝の心象のなかの景であったとしても、あるいはそうであるからこそ、やはり一句の中で「夜紙漉」はきわめて映像的に想起されなければならない。
そうすると、この句は「遠景に見た山峡の夜の灯り」と「紙漉の様子」の、二つの異なる映像を内在させることとなる。そこで疑問となるのは、この句は一つの景、一つの映像としては成立しないのではないか、という点である。
「目つむれば」の句では、まさしく目を瞑ることでありありと「蔵王権現」を想起させる余地を生み出した。しかしこの句では、最後まで家々の灯にまなざしが向けられているのである。
そこには、取り合わせの句においてしばしば「作者の立ち位置(視点)がわからない」ということが指摘されることに等しい問題意識がある。この句を一つの視点、一つの観測地点によって成立しているとするのは、やはり難しいものがある。それは端的にいえば、一句が一つの映像としては破綻している、ということである。
しかし、そうした映像の破綻が、必ずしも一句の破綻をも意味するかといえば、必ずしもその限りではない。この句の場合、むしろ一景の写生の句のように仕立てておきながら、厳密にはそれが決して一つの映像として結実しないという点において、「目つむれば」という措辞と同様の視覚的伝達の不能が宣言されたのではなかろうか。
そうして生じた一種の心象世界的なキャンバスのうえであれば、二つの映像が重なり合って相互補完的に成立しうる。具体的には、「夜紙漉」は点々と灯るばかりの山峡風景のなかで、青畝の言葉を借りれば「いとなみの侘しさ」を際立たせているのであり、翻ってその「をちこちに」「灯る」山峡は「夜紙漉」の侘しさを受けて、切々と胸に迫る「村人のいとなみ」をも内包した、心細くもうつくしい冬の景となっているのである。
このような二つの映像の即時的、瞬間的、電撃的結合は、たとえば「紙漉をする人。その外には、同様のいとなみの明かりが点々とあるばかりである」のような句意で、明確な取り合わせの句として、両者を遠近法的手法で映像として成立させた形ではありえなかっただろう。
その意味で、この句は先に述べた「一つの映像としての破綻」こそが重要であったといえる。
そしてその破綻の果てに得た二つの映像の電撃的結合は、俳句においてしか成立しえない表現のようにも思われる。もちろん、二つの映像を重ね合わせて映したり、一枚の絵画として落とし込んだりするというのは決して不可能ではないだろうが、それらは全体にやや煩雑な、過剰な表現の方向性のなかで成り立つのであって、すくなくとも、「をちこちに夜紙漉とて灯るのみ」のごときまったく整然とした様相にはなりえなず、その点で大きく性質を異にするものであろうと思う。
さて、長くなってしまった。
今回は青畝の話に終始したが、こうした取り合わせ的要素を持つ句に関しては、およそ「一つの映像としての破綻」があるか否かよりも、「その破綻が効果的にはたらいているか」ということに重点を置くのが、一つ有効な方法ではないだろうか。いささか急ぎ足の感はあるけれども、そのような提案をもって結論にかえたい。
(加藤柊介)
【執筆者プロフィール】
加藤柊介(かとう・しゅうすけ)
1999年生まれ。汀俳句会所属。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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