走る走る修二会わが恋ふ御僧も
大石悦子
(『耶々』)
修二会とは、3月1日から2週間にわたり、奈良の東大寺にて選ばれた僧侶が二月堂に籠り、本尊の十一面観音に懺悔し、五穀豊穣を祈る行いである。「授戒」「籠松明」「お水取り」と呼ばれる行事が有名である。堂にて行われる潔斎と五体投地などの荒行には秘儀とされる場面もあり、参詣者はその影法師を拝む。参詣者にとってのメインイベントは、3月12日の「籠松明」である。雅楽と法螺貝の響き渡るなかを僧侶が杉を篝火とした松明を持ち、回廊を駆け、堂縁から差し出し振る。そのこぼれ落ちる火の粉を浴びると厄除けになるため、参詣者は、歓声をあげて火の粉へと集まる。松明は11本用いられ、それを振りかざすことができるのは僧侶として名誉なことである。その後、日付が変わった3月13日の午前2時、笙や篳篥の音が堂内に鳴り響き、大松明が現れ、閼伽井よりご香水を汲む。水は、若狭から送られてきた神聖な水で、その後一年間の仏事に用いられるため、五つの壺に入れ、須弥壇の下に収められる。ご香水は、諸病厄除けになるため、参詣者にも振舞われる。そのため、修二会は「お水取り」とも呼ばれている。
令和4年、NHKはコロナ退散を願って修二会の一部始終を実況放送した。丁寧な解説付きの放送で、現地に行くよりも行事を体感することができた。ただ、堂にて行われる秘儀にカメラが入ったことには非難の声もあがった。参詣者は、その影法師を見ることに、神聖さと情緒を感じていたからだ。控えの間の僧侶がマスクをしている姿もまた荘厳さを失わせた。だが、秘儀公開の映像は歴史に残る貴重なフィルムになったことは間違いない。
掲句の御僧は、作者の知り合いなのか、それとも毎年参詣しているうちに目を付けた推しメンなのか。一連の行事を見ているなかで、美しく映った僧侶の一人なのかもしれない。修二会では、僧侶が走る場面が何度かあり、その中の一人を見極めるのは難しい。しかもどの僧侶も神秘的に見える。
本来、僧侶とは出家した者であり、俗世の者ではない。聖なる存在であるとともに、この世の者と思ってはいけないのである。僧侶が俗世の者に恋をしてはいけないと同時に、俗世の者は僧侶に恋心を抱いてはいけない。僧侶への恋とは、禁断の恋なのである。だが、剃髪をし、目鼻立ちの美しさを露わにした僧侶は魅力的である。袈裟姿も非日常的でそそられてしまう。恋をしてはならない対象ほど美しいものはない。
能の『道明寺』は、紀州に伝わる「安珍・清姫伝説」をモチーフとしている。熊野参詣の途中、熊野八庄司の館に一夜の宿を借りた美貌の僧侶安珍は、その家の娘である清姫に一目惚れされてしまう。人々が寝静まった頃、清姫は安珍の眠っている床に忍び込み、夜這いをしようとする。安珍は困惑し、その場しのぎの言い訳として、「今は参詣する身であるため受け入れることはできませんが、参詣後にまたこの家に立ち寄りますので、それまで待っていて下さい」と告げる。清姫は、その約束を信じ待っていたが、安珍が来ることはなかった。欺かれたと知った清姫は怒り、安珍の居場所を突き止め逢いにゆく。清姫から逃れたい安珍が日高川を渡ると、清姫は迷わず川に身を投じた。その身はいつしか蛇と化し川を渡り、道成寺に逃げ込んだ安珍に迫った。安珍は、寺の梵鐘を下ろしてもらい、その中に隠れる。蛇となった清姫は梵鐘に巻き付くも、自らの情念の炎により身を焼き尽くし、中に籠る安珍も焼け死んでしまう。伝承によって最後は、さまざまなのだが、僧侶に恋をした姫とそれを拒んだ男の悲恋の物語である。
走る走る修二会わが恋ふ御僧も 大石悦子
作者は、昭和13年、京都府舞鶴町(現舞鶴市)生まれ。昭和29年、同郷で「鶴」同人の工藤雄仙の主宰する「飛翔」に誘われ、作句を開始。その後「鶴」に入会し、石田波郷、石塚友二、星野麦丘人に師事する。昭和32年、和歌山大学に入学し、俳句研究会に所属。山口誓子主宰「天狼」にも投句していた。結婚後、育児専念のため句作を一時中断。昭和42年、29歳の時に句作を再開し、昭和56年には「鶴」俳句賞を受賞。昭和59年、46歳の時に、第30回角川俳句賞を受賞。2年後には、第一句集『群萌』により第10回俳人協会新人賞を受賞。平成3年、後藤綾子の呼びかけによる超結社句会「あの会」に参加し、その縁で出会った澁谷道の「紫薇」にも参加。平成17年、句集『耶々』により第5回俳句四季大賞および第1回日本詩歌句大賞を受賞。平成25年、句集『有情』により第53回俳人協会賞を受賞。平成30年、第10回桂信子賞を受賞。令和3年、句集『百囀』で第13回小野市詩歌文学賞及び第55回蛇笏賞を受賞。また、平成14年からは、芝不器男俳句新人賞選考委員を務めた。令和5年、4月28日逝去。享年85歳。
受賞歴も多さからも俳壇での人気をうかがい知ることはできるが、美しく年を重ねられたその美貌もまた魅力の一つであった。古典の素養から生まれた美意識と幻想的な詠みぶりは艶めかしく心に響く。
てふてふや遊びをせむとて吾が生れぬ
身にひそむものの色めく時雨かな
聞香に一本の松しぐれけり
昔男ありけり雪の墓なりけり
立てかけし琴に火のつく寒夕焼
朱雀くる日のために竹植ゑにけり
独特の感性は、背中をそっと撫でられたかのような不思議な空間へと誘う。
猪食べし息をしづかに交しけり
母よ月の夜は影踏みをしませうか
冬瓜のなかに棲みたし火点して
視点の良さは、時には怖さを孕む。
少年にセロリ削る刃与へけり
奈落より鎌を抜きたる藻刈かな
孵らざるものの声する青蘆原
父の帯どろりと黒し雁のころ
闇汁に持ち来しものの鳴きにけり
観念的な表現も説得力があり、物の実相を的確に捉える。
毬重うして紫陽花は知恵の花
はんざきの身じろぎを混沌といふ
こののちは秋風となり阿修羅吹かむ
滑稽味のあるきっぱりとした詠みぶりもファンを魅了した。
友になりたし石榴十ではどうだらう
口論は苦手押しくら饅頭で来い
この指にとまれ夕日も綿虫も
これはこれは貝雛の中混み合へる
犀に降るさくら孔雀に降るさくら
恋の句は、どこまで真実だったのやら。虚もまた本音なのだろう。
五十なほ待つ心あり髪洗ふ
雁帰る攫はれたくもある日かな
二十日月男を箸で突いてやろ
晩年の死を意識した句もどこか明るい。
夜桜や花の魑魅に逢はむとて
冬うらら遺言書くによき日なり
生涯主宰誌を持つことは無かったが、独立した作家としてその名を遺した。何物にも縛られず、自由な境地で自身の表現と向き合い、独自の世界を構築した作家である。
走る走る修二会わが恋ふ御僧も 大石悦子
掲句は、虚の恋なのだろう。僧を詠んだ句としては、
花屑を掃く雛僧のあひ寄りぬ
くわりんの実僧形はこゑよかりけり
がある。雛僧とは、年少の修行僧のことで、花屑を掃いているうちに距離が縮まってゆく様子を描いている。少年同士の淡い恋を思わせる句である。花梨の実は、剃髪した頭の形を思わせつつも、武骨な雰囲気を漂わせる。喉に良いかりん酒を飲んでいるわけではないが、ひと際良い声だったのだ。その声に惚れてしまったに違いない。
恋をしてはいけない対象だからこそ、恋の句を詠んでみたくなってしまう。その背景には、古典の知識がある。修二会の選ばれた僧侶は、崇高な存在であり、参詣者にとってはアイドルでもある。その僧侶の一人と恋仲だったらと考えると、物語の主人公にでもなったかのような気分になれる。
私の卒業した大学は仏教系の大学で、寺の子息や僧侶を目指す学生が多かった。教養部の頃は、長髪であったり金髪であったりするのだが、専門課程に入るとみな剃髪し、美しい顔を晒す。古典文学を研究していた私は、仏教学科の学生とも交流があり、経典などの難しい部分について教えて貰ったことがある。同級生のヨシノさんも仏教文学の授業を受講していたカイメイさんと親しくなった。カイメイさんは、実家の寺を継ぐため卒業後は東北に帰り、婚約者と結婚することが決まっていた。それでも恋心を止めることはできず、大学4年生の短く慌ただしい時間を一緒に過ごした。卒業式を控えた3月のある時、「僕はヨシノさんが誰よりも好きで、できることならずっと一緒にいたい。でも、寺を継がなくてはなりません。卒業式前に別れましょう」と告げられる。卒業式の日、仏教学科の卒業生は、袈裟姿でお経を唱えながら数キロ離れた寺まで練り歩く行事がある。卒業式終了後に大学の中庭に集合し正門を出る新卒の僧を他学科の卒業生と在校生が見送る。袈裟を纏うと誰も彼も格好良く見える。女子達がお目当ての若い僧侶にキャアキャアと声をかける。僧侶の列は一糸乱れず、淡々とお経を唱えながら静かに進んでゆく。ヨシノさんは、別れたカイメイさんをずっと目で追っていた。その日以来、ヨシノさんとカイメイさんが逢うことは無かった。私もまた、心惹かれていた寺の子息とは距離を置いた。
僧侶は、遠くから眺めて愛でるのが良い。近年の僧侶は自由で、好きになった女性と結婚するケースも多いという。でも私は僧侶に好かれたことがない。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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