水母うく微笑はつかのまのもの
柚木紀子
(『麺麭の韻』)
掲句を恋の句と感じたのは、私が笑わない男に興味を抱いた経験があったからだ。学生時代に文学資料館で半年間のバイトをしたことがあった。一日中机に向かい、入力データの文字校正をする苦行の仕事である。
バイト仲間は、睡魔に襲われるたびに雑談をした。昼休憩になると、堰を切ったように会話に花が咲く。だが同じ学生バイトの彼は、無駄口を一切せず昼食時も話さない。外の喫煙所で「いい天気ですね」と話しかけても無表情で頷く。ある日、研究職員が「君はどんな文学が好きなんだい」と聞くと、「ひかりごけ」とだけ答えた。武田泰淳の小説で、戦時中に船が難破し流れ着いた洞窟で船員の肉を食べて生き延びた船長の話である。
後日、研究職員は彼に、武田泰淳やひかりごけ事件の資料のコピーを渡していた。以来彼は、研究職員とは会話をするようになった。バイトをはじめてふた月が経った頃、休憩時間に遠藤周作の『深い川』を読んでいたら、急に話しかけられた。インパール作戦のくだりをどう感じたかとか、『海と毒薬』は読んだかとか。彼は、一方的に質問し、一方的に話をしていた。その後は時々、文学の話をするようになった。彼が笑うことはなかったが、バイト仲間では唯一私としか話さなかったため、交際しているという噂までたった。
確かに「一緒に帰りましょう」と言われることも多かった。バイト期間が終了の日の帰りの電車の中で、急に彼は「大井埠頭に行こう」と言い出した。資料館から大井埠頭は近かった。夜の7時ぐらいまで運河のほとりで彼の文学論を聞いた。ふと、灯に照らされた運河に水母が流れているのを発見した私が「あ、くらげ」と言った。話を遮られた彼はあからさまに不機嫌な表情を見せた。だが私が、「あのくらげは食べられるのかしら」と言うと「ふふ」と笑った。
彼の笑顔を見たのは、それが最初で最後であった。その日以後、連絡がつかなくなった。彼と同じ大学の人に確認したところ、うつ病になり休学しているとのことだった。彼はいつも一方的な文学の話しかしなかったため、私は彼のことを何も知らなかったことに気が付いた。ひそかに抱えていた心の闇など知る由もなかった。私にだけ心を開いてくれたのだと思っていたのは大いなる奢りであった。今でも水母を見るたびに、彼が垣間見せた少年のような微笑みを思い出す。
水母うく微笑はつかのまのもの 柚木紀子
作者は、昭和8年東京都生れ。長野県在住。山口青邨主宰「夏草」に入会し、夏草新人賞受賞。その後、金子兜太主宰「海程」に入会し、海程新人賞受賞。「麦」主宰の中島斌雄にも学ぶ。また、有馬朗人主宰「天為」、長谷川櫂主宰「古志」に所属した。平成3年、58歳の時、第37回角川俳句賞受賞。句集に『名なき目』『岸の黄』『麺麭の韻』『歯凡』『ミステイカ』『曜野』がある。
十代の頃の戦争体験と叔母の被爆は、作者の心に深く突き刺さった。
八月六日鏡の中に戻らざりき
未完に似せまし原爆ドーム風花
いつせいに山羊吾を見る広島忌
クリスチャンになったのは、救いを求めてのことだろうか。神への想いは静かで冷たさを孕む。
羅のみだりに神をよびにけり
聖母月乳のみあたへ得る母に
創世記二章に女鰯雲
地梨漬け聖俗いづれにも遠し
一生を歩きて使徒よ父子草
ペテロの鍵わたくしの鍵冷まじき
母親は脳死であったという。あたたかいままの死を受け入れなければならなかったことは、生死への疑問、魂への疑問を生じさせた。
百千鳥母より枕はづしたる
母を焼くおほきなとびら花の昼
芽芍薬母の炎となりにけり
さくらふぶき灰に全きのどぼとけ
花の雲ははのかたちにははの灰
花屑に母を踏みゆくおもひかな
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