男欲し昼の蛍の掌に匂ふ 小坂順子【季語=蛍(夏)】


男欲し昼のの掌に匂ふ

小坂順子

当該句は上五の「男欲し」に驚かされる。女が男を欲するのは、恋をしている時である。恋をしていない状態では、そのような心境にならないのではないかと思う。掌にのせた昼の蛍は、青臭い匂いを放っている。青臭い匂いは、相手の男性の匂いを思わせるとともに、自分の鬱々とした性欲の苦しさも思わせる。

蛍は、昼間でも発光することがある。薄暗い部屋のなかに一人、手の上に昼の蛍を灯す女。昼の蛍は、部屋に取り残された自分自身の情念のようでもあり、光よりも匂いが際立つ。なんともいえない喪失感と孤独感が漂う句である。女性の鬱々とした性欲は、孤独への悲鳴でもある。夜の蛍は美しく幻想的だが、昼の蛍は無用の光を放つ悲しい虫である。

女は、自分の分身ともいうべき悲しき蛍を手に匂わせ、恋しい男性との逢瀬の夜を思い返しているのだろう。「欲し」と思っているのは、まだ逢える可能性が少しでも残っているからだ。相手の男性とは、いつ逢えるのか分からない状態と推測できる。あまり逢うことのできない男性か、別れざるを得ない男性なのだろう。恋をするがゆえの孤独と絶叫の果てに生まれた一句ではないかと想像する。

作者の小坂順子は、大正7年東京の京橋に生まれる。母の逝去により祖父母の住む小樽にて育つ。小樽高女を卒業後、上京し結婚。離婚後、新橋の芸者を経て築地の旅館「小坂」の女将となる。二十代半ばより俳句を始め、石田波郷石塚友二に師事。「鶴」同人。平成5年死去。句集に『野分』(昭和28)『はしり梅』(昭和32)『蘭若』(昭和54)遺句集『蘭若以後』(平成6年)がある。

平成20年に出版された『鑑賞女性俳句の世界』第3巻(角川学芸出版)には、大石悦子氏による小坂順子論が掲載されている。

男欲し昼の蛍の掌に匂ふ
小坂順子

実は、当該句の出典が分からない。私が俳句を始める決意をしたときに購入した歳時記、『角川春樹編 現代俳句歳時記』(ハルキ文庫)に掲載されていた句である。購入当初は、掲載されている句を暗記するほど読み込んだ。そのなかで、強烈な印象を受けたのが当該句だったのである。本来であれば、句集を購入するなり図書館で調べるなりすべきであるが、その作業に至っていない。

大石悦子氏の作家論より想像するに、夫との不和が兆し始めた「那須」疎開中の頃(三十歳前後)の作か、芸者を辞め旅館の女将になった頃(三十半ば)の作と思われる。

夫と離婚するまでの三十歳前後は恋の句が多い。夫とは大恋愛の果てに結婚したらしい。

  河骨の沼の暗さよ逢ふことなく

  夜を共にせし別れあり額の花

  うつつなく三十路の恋や木の葉髪

これらの恋の句を含む第一句集『野分』は読売文学賞候補となり、世間の話題となった。

『野分』出版後、芸者を辞め旅館の女将になる。その頃、恋をしたらしい。順子の自伝的小説『女の橋』には、その恋の経緯が書かれているとか。第二句集『はしり梅』には、離婚後に得た激しい恋の句が含まれているとのこと。そんな三十半ばの頃の句とも考えられる。

出典及び作句時期が分からないため妄想に走ったが、この機会に小坂順子を研究しても良いかもしれない。〈少年の腰のくびれや草相撲〉〈山光鳥帯解き放つ宿院に〉〈炉火青し口づけ給ふまぶたの上〉〈海芋活けしろじろいのちありにけり〉等、魅力的な作品の多い作家である。

※参考文献
鑑賞女性俳句の世界』第3巻(角川学芸出版)
「いのちありにけり」大石悦子

篠崎央子


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


【篠崎央子のバックナンバー】
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

関連記事