哲学も科学も寒き嚔哉 寺田寅彦

哲学も科学も寒き

寺田寅彦


寺田寅彦の仕事を大観するに、掲句の哲学ということばはむしろ文学に近いものとして恣意的に受け取りたいような気にさせられる。寅彦にとり文学と科学は不可分なものであっただろうし、彼ほど、文と理の両側から同時的にその界面を指向した人物はいなかったのではないだろうかとも思う。さらには、この文と理の二項対立は、西洋と東洋、近代と前近代、といった領域にまで敷衍できるような、構造的なレベルにおいても彼の興味の対象であったと想像できる。二項対立的な句として掲句に加えて、次の句も挙げておきたい。いずれの句もまこと寅彦らしい。

客観のコーヒー主観の新酒哉

話は変わるが、寅彦の「夏目漱石先生の追憶」という文章をかいつまんで紹介したい。言わでもの補足をすると、寅彦は、熊本第五高等学校の教師として赴任していた漱石の生徒であった。 寅彦は、漱石に問う。

「俳句とはいったいどんなものですか」

これに対して漱石は、「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」や「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」などと答える。さらにこうも言う。

「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある」

ずいぶん俊烈な言のように思う。 例えばここに、夏井いつき氏がよく言う「才能やセンスはほとんど関係ありません」などの言を思い合わせてみるとき、両者は明らかに相反しているといえるだろう。正否を問うことは無益だとしても、この相反をどう諒解するべきだろう。思うに、この相反はその対象の違いによるものであると受け取ってみることが有効なように思う。

つまり、漱石の言は、寅彦という才気走った学生に対して向けられたものであって、夏井いつき氏の言は、不特定多数に向けられたものという違いである。仮に、漱石に「才能やセンスはほとんど関係ありません」と教わっていたら、寅彦は俳句にこれほどまでに入れ上げることはなかったのではないだろうかと思わずにはいられない。逆に、夏井いつき氏がテレビの中で、「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある」と宣っていたら、おそらくは未知の俳句愛好家の多数を失っていたことだろう。 本来的にことばは、いかなる状況においても一貫した効果を発揮するような性質のものではないのだ。 寅彦が、才能というしちめんどうなものをどのように捉えていたのかはわからないが、少なくとも俳句においてはそのような軛を脱して、有才も非才も一様に寒いと諧謔してみせたのではないだろうか。  

『柿の種』所収

木内縉太


【執筆者プロフィール】
木内縉太(きのうち・しんた)
1994年徳島生。第8回特別作品賞準賞受賞、第22回新人賞受賞、第6回俳人協会新鋭俳句賞準賞澤俳句会同人、リブラ同人、俳人協会会員。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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