大正から昭和初期にかけて、吉本興業は大阪の寄席や芸人を次々と傘下に収めていきます。その中心となる演芸は漫才で、上方落語は徐々に地盤を失っていきました。戦後、状況はさらに悪化します。1950年に五代目笑福亭松鶴、1951年に二代目桂春團治、1953年に四代目桂米團治が相次いで亡くなり、上方落語を支えてきた世代が一気に失われ、「上方落語は滅んだ」とまで言われました。
学生時代、寄席演芸研究家の正岡容に師事し、落語を研究対象としていた米朝は、1947年に米團治に入門します。演者として芸を磨く一方、古老を訪ねて稽古をつけてもらい、古い速記や資料を蒐集しては、演目を復活させていきました。その中には断片的な記録しか残っておらず、一席の噺に仕立てるため、米朝がストーリーを補ったものも少なくありません。
研究の対象は、上方の風俗や商習慣、歴史、語彙にも及びました。蓄積した知識を、後世の落語家が参照できるよう、書籍として刊行していきます。
寄席芸人であり、上方落語の研究者でもある。それが桂米朝という人でした。
その理知的な姿勢は、俳句にも表れています。小学生のときに俳句に興味を持った米朝は、蕪村や一茶を読みふけり、「ホトトギス」や「俳句研究」も手にしたと著書に書いています。落語家になって俳句との縁がいったん切れた後、柳家小三治らと東京やなぎ句会を結成。40年以上にわたって俳句を楽しんできました。その一端を『桂米朝句集』(岩波書店)から紹介しましょう。
夜は雪という予報あり酒にする
春の雪誰かに電話したくなり
三の酉君らまつすぐ帰るのか
酒好きだった米朝は、弟子たちともよく酒を飲んだそうです。落語会の後、弟子たちを祇園の茶屋に連れていくこともありました。交友関係が広く、人好きな性格が二句目に表れているようです。一方、東京やなぎ句会には下戸が多かったそうで、三句目にはそんな背景も重ねてみたくなります。
咳一つしても明治の人であり
「明治の人」とは誰のことでしょう。生涯の師と仰いだ正岡容か、落語の師、米團治か。米朝自身は大正14年(1925年)生まれです。誰を思い浮かべた句なのか、想像が膨らみます。
鶯を日向になおす日曜日
初蝶や土佐空港の昼しづか
朝東風や旅行カバンを今一度
婚礼の荷が湖畔ゆく揚雲雀
上方落語は復興を遂げたものの、大阪の寄席演芸では漫才が大きな比重を占めています。全国各地で高座を務めてきた米朝には、旅先で詠んだ句も多くあります。一句目には、久しぶりに自宅に戻り、のんびりと過ごす休日の感慨が感じられます。
何となくいつもの道や春の宵
ふうわりと一ひら散りし牡丹かな
春の夜の猫いずこへかゆきにけり
晩年の句です。大きな感動や劇的な出来事を詠もうとはしていません。いつもの道を歩き、牡丹の花びらが一枚散り、猫がどこかへ行ってしまう。日常の小さな変化を、ことさらに意味づけることなく受け止めています。学究肌で、細部まで計算し尽くした米朝落語の芸風とはまた違う、力の抜けた素朴な味わいです。老境に達した米朝の高座を重ねたくなります。
そして最晩年には、こんな句を残しています。
みな故人足袋の春泥ぬぐいけり
青ぬたや昔なじみは皆故人
最後に、僕が一番好きな米朝の句を。
うちの子でない子がいてる昼寝覚め
「うちの子でない子」には、「よその子」や「知らん子」にある突き放したニュアンスとは違い、自分の子ではないけれど、そこにいることがさほど不思議ではない子、という暖かさを感じます。いてても、まあええか、という感じ。もしかしたら、二、三時間後には晩御飯を一緒に食べていてもおかしくないような気がしてきます。
『桂米朝句集』(桂米朝著・岩波書店) 東京やなぎ句会で詠んだ句を中心に、米朝の約200句を集める。俳句にまつわる随筆や自句を記した色紙図版も収録している。
【執筆者プロフィール】
三橋五七(みつはし・ごしち)
蒼海俳句会所属。第70回角川俳句賞次席。
中学1年生のときにたまたまラジオで聴いた十代目金原亭馬生の「抜け雀」に衝撃を受けて以来の落語ファン。
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