そういえば、むかしスピッツに「名前をつけてやる」という曲があった。2作目のオリジナルアルバムのタイトルにもなっていて、まだ「ロビンソン」で爆発的にヒットする前の、ほんのりとしつつもかなり尖った名曲である(1991年発売)。その歌詞曰く、「誰よりも立派で 誰よりもバカみたいな」「名前をつけてやる」。愛と暴力がここには同居している。一説によると、これは「その辺の猫や草木に名前をつけてやると強がっている曲」なのだそう。曲のテンポもいいし、草野マサムネの癒しの高音ボイスに騙されそうになるが、これもまた自我の「暴力性」にあらわれであると、言えなくもない。
いずれにせよ、「名付ける」という行為は、その対象を育て、ケアし、大きくなったあとも見守るという「責任」を負うということであり、それをわたしたちは「愛」と呼ぶ。その責任を放棄して、放置し、蔑み、存在を否定してしまうという矛盾は「暴力」となるのだが、それは「愛する」ということが、けっして無責任に行えることではないからだ。
愛することは責任を負うことであり、責任を負うとは「他者に応答する」ということである。「愛」は労働ではないが、一方的に何かを捧げることである以上、けっして楽なことばかりではない。すでに数ヶ月にわたって、お腹のなかの命を守り続け、早産という不安にも耐え、元気な子どもを出産した作者にとって、子どもの誕生は無上の喜びであるとともに、来るべき子育ての大変さも全身で理解している(多くの父親は、身体的なこともあって、なかなかそうはいかないのだが)。
子どもが泣けば、睡眠不足であっても起きて授乳をしなければならない。子どもが熱を出せば、深夜でも救急外来を探すか、寝ずの看護をしなければならない。子どもが習い事をしたいといえば、夢に向かう姿を応援しなければならない。子どもが学校に行きたくないといえば、そっと寄り添って、その小さな声を逃さないようにしなければならない。だが、親にとって、子どもは「ひとりでは生きられない」がゆえにケアしなければならない対象であると同時に、きわめて「自由」な存在である。いったいどんなふうに育つのか、どんな表情を見せてくれるのか、どんな大人になるのか、それはまったく予想することができない。母親が俳人であることを知ったとき、「ぼくもはいくのせんせいになるよ!」などと、言い出しはしまいか。
その「絶対的な未来」に対して、あなただったら、どんな名前を与えるだろう。
未来は、ふわふわと漂うような「綿虫」のように、気ままで、どこに向かうかわからない。
そのふわふわとした未来は、ひるがえって、自分にとっての未来でも、ある。
(堀切克洋)