ハイクノミカタ

新宿発は逃避行めき冬薔薇 新海あぐり【季語=冬薔薇(冬)】


新宿発は逃避行めき冬薔薇

新海あぐり
『悲しみの庭』


 〈逃避行〉とは広辞苑によると「事情があって、世間の目を避け、各地を移り歩いたり、人目につかない所に隠れ住んだりすること。」とある。新宿というと、都庁などの高層ビルの建ち並ぶ西新宿や大人の繁華街である歌舞伎町を思い浮かべてしまう。新宿発といえば、特急「あずさ」や関西空港へ向かう深夜バスなど、自分を未知なる土地へ運んでくれる乗り物を想像させる。新宿のオフィス街、繁華街から飛び出して自由になりたい、そんな願望は誰しもあるのではないだろうか。

 逃避行とは事情があって人目のつかない土地を探す旅。「かけおち」「道行」など相愛の男女の旅も思わせる。社会に認められない恋を成就させるために、世のしがらみを捨て、自分達のことを全く知らない土地を探し、辿り着いた地で二人だけの愛の世界を構築する。何とも甘美な物語は昔から沢山描かれている。逃避行の果てに、見知らぬ土地で子供を沢山作って幸せになるというハッピーエンドは、人類の憧れる神話である。

 その一方で、逃避行の後の悲劇を描いた物語も数多く存在している。例えば、江戸時代の恋愛事件を題材とした井原西鶴『好色五人女』のお夏と清十郎や、おさんと茂右衛門は、愛の逃避行の果てに捕縛され処刑されてしまう。菊池寛の『恩讐の彼方に』では、市九郎が主人の愛妾お弓と密通した末に主人を斬ってしまい、出奔する。出奔の後、お弓と峠茶屋を営む裏で人斬り強盗をしながら生計を立てる。自らの罪業に恐れをなした市九郎は、お弓と別れ、最終的には、耶馬渓の青の洞門を開削することとなる。

 ひと時の恋の激情で逃避行しても社会の制裁からは逃れられないことを物語は描いているが、これもまた現実であろう。1997年に流行したテレビドラマ「青い鳥」もまた、愛の逃避行の果ての悲劇を描いている。脚本は、2004年に自死した野沢尚である。

 1990年代にリリースされたB’zの「孤独のRunaway」では、順風満帆であった生活を捨て失踪する男の姿が歌われている。バブル崩壊の頃の歌ではあるが、「本当は誰もが平和に見える毎日を壊したがってる」という歌詞が痛烈に刺さる。

 2000年以前、男性は就職すれば定年までの人生のレールが保証されていた。就職後、数年で主任となり、結婚すれば家庭を養えるだけの係長という役職を貰い、子供の養育費が嵩む頃には課長となる。若いOLやホステスと火遊びをしつつ、子供が大学受験戦争に突入する頃には部長となり、親の背中を子供達に見せて行く。人生のレールには、各駅停車もあれば、準急や特急もある。新幹線にいたっては最初からレールも違う。普通電車でもレールに乗れる安堵感が不況の現在では懐かしい。今やどの企業も脱線の嵐である。

 少なくとも20年前までは、レールに乗れることが幸せとされていた。社会が決めた幸せは本当に幸せなのだろうか。幸せの規定に縛られ、みんな自分を押し殺して生きていたのかもしれない。電車は、乗り換えもできる。新しい自分への挑戦として転職や脱サラをして別のレールに乗り換える生き方もある。だけれども、行き先不明の電車に乗って、あての無い旅をしてみたいものである。

  新宿発は逃避行めき冬薔薇   新海あぐり

 「未来図」の大先輩の句である。〈逃避行〉は、現実社会からの逃避とも取れるが、〈冬薔薇〉という季語により波瀾を含んだ愛の逃避行を思わせる一句。実は、俳句仲間と旅行に出かける車中にて作った句とのこと。吟行は家を出た時から始まっていると教えて下さったのも新海先輩である。目的地に向かい走る電車の隣席には、俳句の同志でありながらも男を狂わせる妖艶な美女が座っていたのではないだろうか。

 出版社に勤めていた新海先輩は、文人との交流があった。文人には、堅気のサラリーマンである編集者とは違う突拍子もない言動があったに違いない。「一般人と違う言動をしなければ文学は紡げない」とは、私は思わない。妄想で良いのだ。妄想の中でいかに冒険をし、悲劇を体験するかである。本当に愛の逃避行をする必要はないのである。俳句仲間と乗り込んだ電車の中で愛の逃避行を妄想している新海先輩は、ちょっと怪しい感じではあるけれど。

 吟行の際は、染みだらけで皺だらけのジャンパー(哀愁のジャンパーと呼ばれている)を着込み、くたくたのリュックサックを背負ってくる新海先輩。その一方で高級料亭に出入りしブランドスーツを着こなす格好良いところもある。もしかしたら、〈逃避行めき〉の〈めき〉は照れ隠しの比喩表現であり、本当は実体験だったのでは…。

篠崎央子


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


【篠崎央子のバックナンバー】
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵
>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎
>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中   鷲谷七菜子
>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの   岩永佐保
>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑      大橋敦子
>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


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