逢ふたびのミモザの花の遠げむり 後藤比奈夫【季語=ミモザ(春)】

逢ふたびのミモザの花の遠げむり

後藤比奈夫
(『花匂ひ』)

 「君は、非現実的な雰囲気で、逢っていても幻のような気がしてしまう」と言われたことがある。二十代の半ばの頃は、恋の出逢いが沢山あった。逢うことのできない恋人に不安を抱えつつ、ずっと一緒に居てくれる人を探し続けた。

 独り暮らしをしていたアパートの近くに池のある公園があった。池のほとりには、大きなミモザの木を目印とした喫茶店があり、休日は珈琲を飲みながら本を読んで過ごした。俳句を始めて土日が忙しくなり、半年ぶりに訪れたらイタリア料理店に変わっていた。ミモザの木を残したままのガラス張りのお洒落な店は、一人では入りにくかった。「喫茶店じゃなくなったのですね」と背後から話かけられた。相手は若い男性で、当時の私と同じ二十代後半ぐらいに見えた。中から店主らしき人が出てきて「オープンしたばかりの店ですが、どうぞどうぞ」と言われる。成り行きで一緒に入り、カウンターに座った。私がおすすめメニューの「卵とチーズのミモザ風ピザ」を注文すると、男性も「あ、俺も同じので」と言う。店主が「すみません。ピザは、お出しするまでに30分ほどかかります。よろしければ、それまで軽くワインなど飲まれては?」と言い出す。すると男性が「1本ぐらいならご馳走しますけど、一緒にどうですか?」と聞いてきた。「昼間からワインもいいですね。じゃあ、一緒に飲みましょう」と答えた。独身時代の春のけだるい午後には、そんなドラマのようなことも起こるのだ。「ところでミモザって何ですか?」。男性は店主に聞いたのだが、私が「外にある黄色い花の木の名前です。あの花のようにふわふわで黄色いピザなのだと思います」と答えた。店の前のミモザは池の水面の反射を受けて、春を凝縮したような黄色い息を噴き上げていた。「喫茶店だったときも、あの花ありましたね。今初めて名前を知りました」「以前から、この場所にはよく来られていたのですか?」「ええ、貴女をお見かけしたこともあります」「え!そうなのですか。この近所にお住まいなのですか?」。ワインの勢いで話が弾み、店を出たときには夕方になっていた。ほろ酔い気分で一緒に公園を歩き、「あの店はピザが来るのが遅すぎる」とか「ワインが旨すぎて飲み過ぎた」とか「次に来たときは、ミモザサラダも食べるぞ」とか言いながら笑いあった。男性とは連絡先を交換したものの、電話が掛かってくることは無かった。淋しい春を彩った小さな明るい事件として、いつしか忘れてしまった。

 金融企業に転職した頃、会社の裏手にある緑道のベンチに座り、一人で弁当を食べるのを楽しみとしていた。3月初めの暖かい日に弁当を広げていたら、「お隣、よろしいですか?」と声を掛けられた。見上げると、あの男性が笑っていた。なんと、近くの会社に勤務していたらしい。「実はあの後、携帯電話が破損して連絡できなくて。でも逢いたかったから、何度かミモザの店にも行ったけど、君はいなかった。この緑道もミモザが咲いているから、いつもここで弁当を食べていたんだ」。男性の言う通り、緑道の隅をミモザが染めていた。「私も連絡しようとしたら繋がらなくて、振られたと思っていたのよ。だからミモザの店も避けていたの」「今度また一緒に食事しようよ」。再度連絡先を交換したものの、タイミングが合わず一年が過ぎた。そして三度目の偶然は、会社の送別会の時である。居酒屋の化粧室から出たところで、ばったりと出くわした。「隣の座敷で大騒ぎしているのは、貴方の会社だったの?」「そっちも盛り上がってるじゃん」。またまた大笑い。「この後、逢えないかな。9時過ぎには解散になるので、近くのバーで待ってる」。席に戻ると男性からメールがあった。「了解」とのみ返信して、二次会へ向う同僚の群れを抜け出し、バーへと向かった。バーに着いた頃、「ごめん。カラオケに連行されてしまった。10時30分には行けると思う」という連絡があった。結局、12時近くまで待っても来ないので帰った。

 最後に逢ったのは、それから数日後のこと。池のほとりのイタリア料理店のミモザの花が窓を染めていた。「やっと逢えたね。今日は念願のミモザコースをご馳走するよ。ワインは白にしようか」。男性の笑顔がミモザよりも眩しく見えた。「実は俺、転勤になっちゃって。君とは運命を感じていたけれど、そうじゃ無かったみたい」「本当ね。偶然が多い割にはタイミングが合わない人ね」。笑いながら乾杯をした。「君は、恋人とかいないの?」「いるけれども逢えないの」「俺もそうなんだ。仕事も趣味も忙しくて、怒られて振られてばかり。だから、家も会社も近い君は理想の人だった。でも近くて逢えないのは辛いし、逢っていてもどこか遠い人に感じる。こうして、逢えているのが不思議なほど」「それは私が言いたいことだわ。いつかまた、逢えそうな気がする」。どんなに惹かれ合っていても、条件が良くても、恋にならないことを知った。恋になる前のぼんやりとした明るく刺激的な黄色。ミモザの恋は、昼間の健全な食事とともに終った。

   逢ふたびのミモザの花の遠げむり   後藤比奈夫(『花匂ひ』)

 作者は、大正6年、大阪府生まれ。父は「諷詠」主宰の後藤夜半。昭和16年、大阪大学物理学科を卒業。戦時中は陸軍の技術研究所に勤務。終戦後、大阪市にボン電気会社を設立。昭和26年、34歳の時、父の夜半の主宰誌「花鳥集」にて俳句を始める。「ホトトギス」「玉藻」にも投句し高濱年尾、星野立子に師事。昭和29年、「花鳥集」が「諷詠」に改題され、その編集兼発行人となる。昭和30年、波電子工業所を創業、5年後には株式会社となり代表取締役に就任した。「ホトトギス」同人を経て、昭和51年、59歳の時、夜半の死により「諷詠」主宰を継承。昭和60年、68歳にて社長職を退き俳句に専念。2年後には、俳人協会副会長、日本伝統俳句協会顧問、大阪俳人クラブ会長、大阪俳句史研究会代表理事などに就任。平成24年、95歳の時に「諷詠」主宰を息子の立夫に譲り名誉主宰となる。令和2年6月5日、103歳にて老衰のため死去。

 「俳句は心で作って心を消す」を信条とし、生涯16句集を上梓。平成18年『めんない千鳥』で蛇笏賞、平成29年『白寿』で詩歌文学館賞を受賞。解説書を合せると60版を編纂。主宰誌「諷詠」は、長男の立夫を経て、現在は、孫にあたる和田華凜氏が四代目主宰を継承。

 父の夜半から受け継いだ上方風の俳句が有名ではあるが、独特の視点を持つ。

  東山回して鉾を回しけり

  壬生の鉦打てるはいつも向うむき

  羅を着て祇王寺に用のあり

  鷹ヶ峰借景として障子干す

  神戸美し除夜の汽笛の鳴り交ふとき

 喜多流の能楽師である叔父との縁で能楽や民俗芸能に関わる句も多い。

  春の雪降る日の鬘合せかな

  ほんたうに笑つてをりし壬生の面

 能の美を景に託し再現した描写には情感がある。

  花了へてひとしほ一人静かな

  ともし火と砧の音のほか洩れず

  月よりも雲にいざよふこころあり

  花に贅落花に贅を尽したる

 全国各地の祭の句もまた、見せ場をしっかりと捉える。

  黒髪に結びしを山鹿灯籠と

  踊笠被りて眉目の生れけり

  秋思祭すみしやすらぎ月にあり

  縦に見て時代祭は面白し

  脇差を差して相川をどりとて

 大正生まれは、新しいものが好き。若者にも負けないぐらい現代を新しく詠む。

  雪がちらつけばと思ふルミナリエ

  矢の如くビヤガーデンへ昇降機

  牧場に生れし蠅とバーベキュウ

  ファッションといふ春寒きものを見る

 愛嬌のある人柄を思わせる詠み方も魅力的だ。

  文旦を剥くに千人力を出す

  雪蓑の藁のどこからでも出る手

  河豚を食べ過ぎたる人の顔となる

 ホトトギス派としての客観写生の句も見事。

  耳うごくときはつきりと狩の犬

  焦げてゐて雪の白さにきりたんぽ

  ぽつぺんは口より遠くにて鳴れり

 植物の句は少々変わっている。真実を突いているようでいて、可笑しみを孕む。

  管物といひて神経質な菊

  チューリップには定型の美しさ

  辛夷散る百の白磁を打ち砕き

  ロゼといふ色に出でたる酔芙蓉

  民宿の花魁草の厚化粧

  どの国の時計に似たる時計草

  クリスマスローズそんなに俯くな

 植物への執拗なまでの眼差しは、人間の根源を見据えたような句を生んでゆく。

  光らねば冬の芒になり切れず

  一日を今生として底紅も

  しんじつを籠めてくれなゐ真弓の実

 動物に対してもその視点がぶれることはない。

  白魚汲みたくさんの目を汲みにけり

  蛞蝓といふ字どこやら動き出す

  あたたかやきりんの口が横に動き

 時には、命なき物にも命を与える。

  止ることばかり考へ風車

  ふと思ふ裸雛の体脂肪

 感覚的な表現はどこまでも膨らみ、大きく人を包み込んだ。

  ここへ来て佇てば誰しも秋の人

  人の世をやさしと思ふ花菜漬

  つくづくと一期は夢と花を見る

  天人になりたる思ひ大花野

 愛妻家でもあった。幼馴染のように世の遊びを共にした妻への鎮魂のために出版した句集『めんない千鳥』は、蛇笏賞を受賞した。

  サングラス掛けて妻にも行くところ

  筆措いて妻と十六むさしかな

  年玉を妻に包まうかと思ふ

  妻とするめんない千鳥花野みち

  亡き妻を探しにきたる初雀

 平成24年に「諷詠」主宰に就任した息子の立夫は、その4年後の73歳にて逝去。比奈夫が百歳の時である。

  急ぐならひとりで行けよ露の道

  愚やな祇園囃子に誘はれて

  端居してゐても亡き子のことばかり

 長生きであったからこそ詠めた句の数。生涯現役を貫き通した。

  白寿まで来て未だ鳴く亀に会はず

  受けてみよ上寿の老の打つ豆ぞ

  粽より酸素が好きで百三つ

  あらたまの年ハイにしてシヤイにして

 令和2年、コロナ禍の訃報は、世を驚かせた。ずっといつまでも生きている人だと思っていたからだ。大正、昭和、平成、令和という四つの時代を体験した稀有な俳人である。結社「諷詠」もまた四世代目に入った。

  逢ふたびのミモザの花の遠げむり   後藤比奈夫

 掲句は、私が初心者の頃に購入した『俳句の花』(編著:青柳志解樹 写真:夏梅陸夫)のミモザの頁の見出しの句であった。以来、春になるたびにミモザの花を探すようになった。温暖な地域に咲く花で、庭木として人気が高い。梅が咲き終わった頃に黄色く空を染める花は、春の明るさを運ぶ。イタリアでは、3月8日は「ミモザの日」と呼ばれ、女性に感謝を伝える「女性の日」である。「国際女性デー」でもある。

 花を詠むことを得意とした比奈夫が晩年に詠んだ句で、〈アネモネの好きな彼女を思ひ出す〉という句がある。ミモザの句も花のイメージから遠い恋を思い出して詠んだのであろう。ミモザの花を〈遠げむり〉と捉えたところが見事である。確かに、煙のようだ。鮮やかな黄色ではあるけれどもぼんやりとした印象がある。逢っていても掴みどころのない恋人を思わせる。逢わないでいる時も記憶の中の恋人は、明るくもやもやとしていたのだ。。

 恋人という存在は、そんな、明るくもやもやとしたものなのかもしれない。逢っていても遠くて、次はいつ逢えるかも分からない。小さな黄色い粒粒の花が集まって房となり、激しい黄の色を吐き出すミモザのように、小さなときめきが積もって鮮やかに心を染める。想い出となっても、消えない煙のように。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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