彼とあう日まで香水つけっぱなし
鎌倉佐弓
(『天窓から』)
作者は、昭和28年、高知県生まれ。埼玉大学在学中に俳句を始め、能村登四郎主宰の「沖」に入会。卒業後は、公立小学校教諭を務めた。昭和59年31歳の時に第一句集『潤』を出版し、若々しく感性豊かな詩情が評価された。3年後の昭和62年34歳の時に、第二句集『水の十字架』を出版。翌年の昭和63年、沖珊瑚賞受賞ののち「沖」を退会。結婚、出産、離婚を経て、平成4年39歳の時、第三句集『『天窓から』を出版。平成10年、45歳の時、季刊国際俳誌「吟遊」を夏石番矢氏と共に発行し、編集人となる。夏石番矢氏と結婚。平成18年48歳、現代俳句協会賞受賞。同年、第四句集『走れば春』を出版。世界俳句協会での活動を経て、平成23年58歳の時、第五句集『海はラララ』を出版。他、選句集『鎌倉佐弓句集』、日英対訳選句集『歌う青色 50俳句/A Singing Blue: 50 Haiku』、夏石番矢との共著エッセイ集『俳句縦横無尽』、『鎌倉佐弓全句集』などがある。現在72歳。動画での俳句朗読の配信やブログでの俳句鑑賞など、まだまだ活躍中である。
恋の句を詠む作者として知られているが、能村登四郎や「沖」編集長で後に副主宰となる林翔の影響を受けた抒情的な景の描写の句も多い。
第一句集『潤』は、青春性を孕みつつ瑞々しい描写の句が高い評価を得た。また、若い女性の恋の句は、俳壇をざわめかせ、若手女流俳人の憧れとなった。
サイネリア待つといふこときらきらす
鮎は影と走りて若きことやめず
安房は手を広げたる国夏つばめ
蓑虫の糸にぶつかる日本晴
どこへでも行ける明るさ石蕗の花
炎天下おのが影より羽音して
背泳ぎの青春揺らぐところまで
第二句集『水の十字架』は、牧羊社の「現代女流シリーズ」という企画出版である。第一句集の勢いを受け継ぎつつ、より全身で景を描写し、感性の鋭い句集となった。恋する女性の繊細な感覚もまた魅力的である。
尻濡れてしまふ淋しさ潮干狩
頬に来るかすかな雨滴春まつり
五月くる爪先立ちに山現れて
抜けがけのやうに青空夏つばめ
身に覚えなき夢に似て蟬の殻
しみじみとハンカチの皺雁の後
ゆく鳥へ約束のごと蔦枯るる
水ぷるるぽるると芹のあはひかな
第三句集『天窓から』は、自由かつ奔放な発想で俳句と向き合った。恋愛、結婚、出産、離婚という物語性を持つ句集である。恋の句ファンとしては、バイブルのような句集だ。表記は現仮名となり、無季語の句も多く、縛られない詩情がある。
白もくれん一糸まとわぬまま現れぬ
こめかみは水のさびしさくちづけよ
耳に息かけられて聞く蝉しぐれ
水仙をとりまく青は歌ういろ
女郎花はじめに揺れた方が負け
ヘアピンの軽さは恋をまだ知らぬ
風だけでは足りないふたり婚約す
のけぞって菜の花の黄のさわぐまま
吹雪く夜の右の耳たぶから噛んで
虹を呑みほせずに首長竜ほろぶ
受胎して象のあくびを眩しみぬ
ごうごうと鳴る産み月のかざぐるま
この母の骨色の乳ほとばしれ
朝霞にけやきの猜疑心とがる
今はむかし前髪は風のぬけがら
潮騒に腐蝕してゆく夫婦像
顎冷えてジュラ期の空を見失う
波の上の未来よ渇いてはならぬ
第三句集『走れば春』は、夏石番矢氏と出逢い、新しい方向性を探りつつ、俳句の若返りを図った。特に現代俳句協会賞で評価された句は圧巻である。
ポストまで歩けば二分走れば春
花菜畑ざぶんと人を好きになる
花衣しあわせは皺寄ることも
夜も回る水車会いたい人がいる
この暑さ定規は目盛り捨てたいよ
泣けるだけ泣いてひまわり直立す
夏終る引き出しに雲入れたまま
鬼さんこちら手が鳴る遠い芦が鳴る
鳥わたる微量の涙ついていく
膝が抱くハンカチ、パン屑、虫の声
冬の虹きみと分け合うには微か
箸を子に伝えて桃の花ざかり
第四句集『海はラララ』は、英語に翻訳されることを意識した、あるいは英語で作った後に和訳したのか、詩的な言葉が並ぶ。一方で、俳句の定型と情感を活かした句も見事だ。エロスの表現も景と融合している。
子めだかに大きな水がついてくる
橋までは確かに夕日を握ってた
ああ小鳥凩にひっかかっている
夕茜まばゆいときの海はラララ
竜宮に入りそこねし海鼠かな
落ちるまで己れを露と知らざりき
私かしら雛罌粟かしら揺れるのは
書けばわずか二文字の勇気が寒い
生きめやも卯の花色の恥骨もて
どこへ行くいつ帰ってくる流星
猿が岩を叩いてやまず「春よ来い」
乙女のような恋の表現も激しい情念の句も共に輝いて映るのは、言葉を組み立てる才能によるものだろうか。それとも天授の感性なのか。己を消す俳句ではなくつねに己が主人公のような詠み方は、現代的でもある。かといって、感情まかせの句ではない。己をいつも客観的に眼差した上で生み出した斬新な表現が、俳句と詩を繋ぐ言語の架け橋となっている。
彼とあう日まで香水つけっぱなし 鎌倉佐弓
香水は夏の季語で、汗の匂いや体臭を消すために使う。現在では男女問わず一年中使うのだが、特に夏場には需要が高くなる。日本にはもともと香を焚きしめる文化があった。麝香、白檀などの香を着物や扇子に吸わせ、それを自分の匂いとして相手に認識させた。明治になり西洋の香水の文化が入ってきた後は、洋装に合わせて香水を振った。夏目漱石の小説『三四郎』では、都会的な女性の美禰子が三四郎に香水を選ばせる場面がある。後日、その香水が染みたハンカチで三四郎の汗を拭い「ヘリオトロープ」とささやく。婚約者がいる美禰子は「私を忘れないでね」という意味でその匂いを三四郎に残したように思われる。
掲句は、作者が「沖」退会後の空白期間を経て、自由な境地で詠んだ恋の句である。表記は現仮名。〈つけっぱなし〉という口語的な表現があっけらかんとした印象を残す。香水は本来、人に不快な思いをさせないための嗜みであると同時に自己アピールでもある。だから一人で居る時はつけない。風呂に入り、あとは寝るだけの時もつけない。そう考えると、いつ彼が来ても良いようにつけていたのか、あるいは願掛けのようなものもあったのだろう。自分と一体化した香水の匂いに包まれることで、相手もこの匂いを想い出して逢いにきて欲しいという自己陶酔的な恋心なのだ。
私が初めて香水をつけたのは、高校生の時である。それまでは、制汗スプレーやヘアフレグランスを香水の代わりにしていた。高校1年生の夏休み直前のことだった。密かに想いを寄せていた男友達から映画に誘われた。決戦は日曜日。期末テストが終わると、新しい服を買って、香水も買った。スイートフローラルという名の小瓶であった。デートの当日、映画の最中に「いい匂いだね」とささやかれ、ドキドキした。だけれども交際には至らなかった。彼にはすでに恋人がおり、逢えない状況にあった淋しさから私を誘っただけだったらしい。その後も彼とは何度かデートをした。逢うたびに「いい匂いだね」と言ってくれた。ある時は、「彼女に別れ話を切り出したら泣かれてしまった。ごめんね」と言われたことも。香水が空になった頃には、別の恋が走り出していた。香水も薔薇の匂いに変えた。
今でもスイートフローラルの匂いとすれ違うと彼のことを想い出す。恋人がいるくせに、私をデートに誘った悪いヤツ。でも、男の子とデートをした最初の想い出。映画館がドキドキする場所であることを知ったのも、あれが初めてだったかも。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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