
麗らけしおほかた毛なる犬の嵩
若林哲哉
犬をこじらせている。
犬、それは約二万年前だかに人と暮らし始めて人間の最高のパートナーな生き物であり、長く労働を共にしてきたあの犬。わたしは犬がどうしても怖い。
23才までは道の向こうから犬が来れば反対側の端へより、なんなら道を変えた。小学校の時は田舎の田んぼ道を歩きながら「今ここで急に犬が追いかけてきたらどう逃げるか」考えていた。
この四半世紀でもっとも地位が上がったのは犬である。庭先で残飯や雑なドッグフードを食べていた犬はいまや室内の一番暖かい場所で撫でられている。
野生はどうした。
あの剥き出しの牙と全身の筋肉はどこへいったのだ。小学生のわたしは道々の番犬に吠えられないように、給食で残ったパンにちょっと唾を付けて犬に与えていた。そう、当時椋鳩十やシートン動物記といった動物の物語を愛読していたのでそこからの知識だ。
これは効果が抜群で、どんなに吠える犬も尻尾を振るようになった。
私の勝利である。
そんな、野犬の群れに怯えた日もある私に転機が訪れたのは23才の時だ。当時スーパーの片隅で呉服屋の新入社員として勤めていた私は、とあるお客様の家を訪ねることとなる。ありていに言えば太客で、氷河期世代の新入社員の年収より高いきものを買ってくださった人だ。いい人だった。
今でも思い出す、そのお宅のチャイムを鳴らす前から聞こえた激しい犬の鳴き声、引き戸から飛び出さんばかりの二匹のマルチーズ。居間にあげていただいた私は、気絶しそうになりながら「かわいいわんちゃんですね」と微笑んだ。犬の爪がスーツのスカートに引っかかる、興奮したマルチーズは吠えまわりながら私に遊んでもらおうとする。
ショック療法とはこのことだ。曝露療法だとしたらやり過ぎである。でも、それでちょっと犬が大丈夫になった。
さらに、私の二番目の子が赤ちゃんの頃から犬が好きで、とくに犬が吠えているのを見るのが大好きだった。だからベビーカーを押して、近所の誰にも懐かない吠えまくる北海道犬を見せてあげに行った。「よく吠えてうれしいね」「いい犬だね」毎日犬を褒めていたら、ある日犬が吠えなくなった。尻尾をふってこっちを見ている。さらには「おすわり」と声をかけたら座ってくれる。
そう、うっかり心が通じ合ってしまったのだ。遠くから声をかけているだけの私と犬は、少し仲良くなった。でも、わたしはその犬に一回も触れなかった。どうしても、怖かったのだ。その犬はそのうち引っ越してしまって居なくなった。
よく吠えてくれた、いい犬。一回くらい、触れられたらよかった。
冒頭の句の鑑賞をしよう、ここまでは前提だ。
麗らけしおほかた毛なる犬の嵩
犬というのは、動物でありながら人間と生活を共にする家畜でありペットだ。人間が好みや目的に合わせて犬同士を掛け合わせ、品種を作ってきた。犬が「家族」であり仕事の相棒であることもその人の中では事実だろう。塊肉をローストする回し車を回すためだけに開発されたロースター犬(ターンスピット)、ふわっふわのマルチーズ。人の想いや欲が犬を形作って来たのだ。「おほかた毛」であるこの犬は愛玩犬なのだろう。人が愛を注ぐための器として生きている。「ずぶぬれて犬ころ」にはなりようが無い存在だ。
私が犬に恐怖するのも、毛玉のようなふわふわわんちゃんを愛玩するのも人間の勝手な思い込みに過ぎない。麗らという輝かしい季語の中で、毛でない犬の肉や骨や牙はこの瞬間お呼びでない。特に現代において人間が犬のことをどう見ているのかを、かすかな皮肉とともに表している句だ。かさばる毛に犬の生命としての実感は覆い隠されている。そのふわふわの毛も、人間の思いによって品種開発されトリミングされたものだ。人の思いによって膨らまされた犬の毛はあくまで美しくあたたかい。
ちなみに私は犬のことを尊敬している。私にとって犬は、賢くて牙をもった危険で強い美しい生き物だ。だから人間に抱かれて散歩している犬を見ると切ない気持ちになる。このわたしの「犬こじらせ」も「おほかた毛」に表される犬への勝手な思い込みなのであろう。
(吉川千早)
【執筆者プロフィール】
吉川千早(よしかわ・ちはや)
長野県安曇野市在住
「澤」同人 俳人協会所属
第10回新鋭評論賞受賞
・E-mail:chihayayosikawa@gmail.com
・X @chiyochihaya