
枯れきりしさくらつづくや夜の森
小澤實
今朝は雪がふった、三月なのに。
ずっと、震災詠と向き合えなかった。
わたしが俳句をはじめたのは震災の一年半後だったと思う。だからそのころ買った俳句雑誌にはよく震災の話題が出ていた。何を思うことも不誠実になるようで、何も思うことも出来ないでいた。
あれから色々あった。
純粋に時間が経ったし、私は重度の障害のある子どもと一緒に暮らしている。その間ずっと俳句をやってきて考えて。やっと、借り物でない言葉で、震災を受けとめて言葉に出来るかもしれない。だから、今回福島芸術講 Fukushima Association for the Artsの「福島巡礼三十三句」からこの句を選んだ。巡礼の句を鑑賞することもまた祈りの一部かもしれないから。
これから書く鑑賞は、私が自分で考えた言葉で書いている。だから見慣れず読みにくいと思います。ご容赦ください。
枯れきったのは過去である。枯れのさらに先といってもいい、極限の枯れだ。これは死にひらかれている。そこに向かい合うのはさくらである、毎年新しく咲く美しい命にひらかれている花だ。この二つの向かい合いが続いていく、死と生が向かい合い続ける。この死は生の続きではなかった、花はまた咲き続けるはずだった。さくらという季語の本意である生のはかなさに、生の断絶という本情を加えることで、さくらという季語を厳しく開展させている。
この断絶する生死の向かい合いをや切れによって受け止め向かい合うのは夜の森である。夜の森、これもまた夜という死にひらかれた時間と森という生にひらかれた場の向かい合いだ。生死の強度の高い上五中七を受けるにあたって、時間と場を兼ね備えた下五がある意味は大きい。
なぜなら、枯れの先にあるのは崩壊や朽ちであり、それは新しい巡りへの参入だからである。生死の向かい合いは夜の森にとっては当然とも言える出来事だ。小動物の命は捕食者あるいは気候の変動、つまり自然によって簡単に断絶する。ただ、その断絶は全て森の命の巡りの中にある。
枯れきりしさくらが続くのが、夜の森であると断定されるのは祈りである。枯れの先にある命の巡りへと、さくらが再び参入するのだという言祝ぎである。
この句の祈りを、わたしはこのように読んだ。句があるおかげではじめて福島と向かいあえたような気がしてます。ありがとうございました。
(吉川千早)
【執筆者プロフィール】
吉川千早(よしかわ・ちはや)
長野県安曇野市在住
「澤」同人 俳人協会所属
第10回新鋭評論賞受賞
・E-mail:chihayayosikawa@gmail.com
・X @chiyochihaya