霊園の枯芝永遠に刈るなりロボットは 小澤實【季語=枯芝(冬)】 

3.考察
 上に挙げたすべての俳句を、震災俳句という前提でそのナラティブを紐解いた。これは、「フクシマ」に汚染された思考による評論である。取り上げた句の中には、明らかに東日本大震災のことを描いている句もある。しかし一方で、果たしてそうであるか定かではない句もある。震災性を意識せずに詠まれた句も、「フクシマ」というフィルターによって震災俳句になる可能性があるのだ。
 例えば、〈霊園の枯芝永遠に刈るなりロボットは〉という一句は、震災以後の福島を知らない人にとっては、ただ草刈りロボットが霊園の芝生を延々と刈っているだけとしかとらえることが出来ない。〈枯れきりしさくらつづくや夜の森〉も、夜の森で枯れた桜の木が続いているだけである。〈自画像抽象青がちにして寒暮に描く〉も、寒暮に自画像を描いただけの場面があるのみである。しかし、震災以後の福島すなわち「フクシマ」を知っていることで、そのフィルターを通して、何でもない一句が震災俳句へと変わってしまう。
 ただこれは、この作品のタイトルが「福島巡礼三十三句」であることも起因する。このタイトル情報により、掲載されている俳句はすべて福島に関係するものだと分かる。であれば、震災俳句であると捉えてしまうことも理解できる。しかし、「福島を詠んだ俳句」というだけでそれが震災俳句と簡単に結び付けられてしまうのは困った話である。福島は震災だけで語られるべき存在ではないからである。震災以後、福島を詠むことが震災を詠むことになってしまっていないか。
 ただ、その「フクシマ」に汚染されたまなざしがなければそのナラティブを紐解くことの出来ない俳句もあることもまた事実である。ここで述べておきたいのが、汚染された、というのは一種の自虐と復讐を込めて用いている表現だということである。震災以後、福島は時に「フクシマ」と称され蔑まれてきた経験をもつ。そして、その払拭に人々は奔走した。私自身、その役割を自ら担った過去がある。「フクシマ」という言葉、それを用いる人々が許せなかった。愛する福島を言葉によって穢されて、それを反駁したくて仕方が無かった。福島と心中する覚悟があると言えてしまうほど、若い時間をそれに費やした。今思えば酷く病的であった。福島の虚像である「フクシマ」に狂わされたのである。それは私だけではないのではないか。だから、広義の自虐としてこうした表現を用いている。また、その「フクシマ」を作り上げたのは、実像を見るつもりのない大人たちである。そんな情けない大人たちによって、福島に生きる人々は傷つけられてきた。他でもないお前たちのせいで、我々のまなざしは汚染されたのだ。お前たちが作り上げた巨大な虚像がこうさせたのだ。それを知らしめるために、復讐のためにあえて汚染されたと宣うのだ。
 ニュートラルな言いかたをすると、「フクシマ」を知っているまなざしによって、その俳句のナラティブに奥行きが増すことも確かにある。〈枯野なり建つハ震災遺構のみ〉は震災遺構がどのようなものかを知らなければその様子を想像することが出来ない。〈請戸小学校一階津波とほり北風も〉は、実際に請戸小学校を訪れて、津波によってがらんとした一階の様子を見て、さらにそこを通り抜ける風を感じたことがあると、よりその寂しさがわかる。〈霊園の枯芝永遠に刈るなりロボットは〉は霊園と草刈りロボットというどこか不可解な組み合わせともとれる風景を不思議に思うだけに留まってしまうかもしれない。〈増子洋一警視佐藤雄太警部補さくら〉に関しては、東日本大震災の時になにがあったのかを知っていなければただしく味わうことのできない一句である。〈枯れきりしさくらつづくや夜の森〉も、どこまでも続くような桜の木を見たことがあれば、「つづくや」で詠嘆されている以上にこの句に深く心が動く。〈自画像抽象青がちにして寒暮に描く〉に関しては震災性が見られないからこそ、これが「福島巡礼三十三句」として選ばれている意味を各々のまなざしで考えるきっかけになる。〈津波押し来しテトラポットや冬日なか〉も、津波が到来したあとの惨状を記憶していれば、それから十数年も経って穏やかにテトラポットが冬日に照らされている様子を当然のことと看過せず、尊いものとして見ることが出来る。
 さらに、福島について詠んだ句は、その季節性を超えて震災性ばかりが目に入ってしまう性質があるように思われる。どの句も、枯野、北風、枯芝、桜、寒暮、冬日と季語があるにも関わらず、それ以外の点に目を向けて評論を書いた。福島を詠んだ俳句は季節を感じるものではなく、震災を語るものになってしまっている。季節を感じにくいのは、それだけ福島を詠むことが「フクシマ」を詠むことと同義になっており、季節を超越して、「震災の話をしている」といったバイアスがかかってしまっているからではないか。
 すなわち、その俳句が福島について詠んでいると分かると、それは「フクシマ」を知っているまなざしによって、そうした意図が無くとも震災俳句になってしまうことがあるのだ。しかし同時に、その「フクシマ」を知っているまなざしがあることによって、震災俳句として福島を詠んだ俳句のナラティブを紐解くことが出来る。福島を詠んだ俳句にはその二面性があることを、詠む者も読む者も理解して初めて、偏りのない楽しみ方ができるのではないか。

4.おわりに
 福島を詠んだ俳句には二面性がある。意図していなくても「フクシマ」を知っているまなざしによって震災俳句になってしまう可能性があるがしかし、震災俳句として詠むと「フクシマ」を知っているまなざしがそのナラティブを紐解く手助けをする。また、季節は素通りされて震災性が押し出されている。
 東日本大震災によって福島を俳句の題材とすることの難易度は格段に上がってしまった。福島は震災だけがその要素ではない。ただ、震災から15年、あの出来事が大きく私たちの眼を眩ませて、それがずっと尾を引いて、まなざしを狂わせた。そのまなざしは本当に実像の福島を捉えているのか。それは「フクシマ」という虚像ではないのか。福島を詠む者はそのことに十分注意しなければならない。そしてその俳句を読む者も、それが「フクシマ」という虚像を詠んでいると決めつけてはならない。いつか何も考えることなく、過剰に気にすることなく福島を詠むことの出来る日が来ることを祈って、本稿の結びとする。

【参考資料】
福島芸術講活動報告会レポート – 東京大学大学院 情報学環・学際情報学府(2026年10月23日最終閲覧)
福島芸術講 Fukushima Association for the Arts(2026年10月23日最終閲覧)
【公式】震災遺構・浪江町立請戸小学校(2026年10月23日最終閲覧)
津波に襲われ殉職 警察官が乗っていた被災パトカー、展示の意義 | 毎日新聞(2026年10月26日最終閲覧)
「やっと会えたね」 津波で殉職した警察官と桜の物語 | 福島のニュース│TUF (1ページ)(2026年10月26日最終閲覧)
福島学カレッジ表現コース公式Instagram
https://www.instagram.com/p/DBEIxMTyq3H/?psln=MTh3OW9hOWNob3o5Yg==(2026年11月2日最終閲覧)

(佐藤惠)


【サークルプロフィール】
福島大学俳句会
2025年11月発足。立ち上げ人代表・金光舞、副代表・石川尖晶、顧問・高橋由貴准教授。毎週金曜日の活動。月に一度は季語を体感することを大切にしており、5月・しゃぼん大会、6月・ゼリーを食べる会、7月・流しそうめん大会を実施。9月に実施した一泊二日の夏合宿では句会が3時間に及びたいへんな盛り上がりをみせた。3ヶ月に一回程度のペースで吟行も行っている。さらに、福島大学の出張講座のなかに初心者向け俳句講座を設けており、湯本や飯坂、楢葉など福島県全域を対象に俳句を教える活動にも取り組んでいる。インスタグラムでは毎日季語を紹介する投稿を続けており、ニッチな人気を誇る。
 現在、会員は17名であり、福島大学に通う学生に限定し、会員を募集中。今年11月7日には福島大学俳句会機関誌「栖(すみか)」の創刊号が刊行予定となっており、40名近くが関わる大きなプロジェクトになっている。


【執筆者プロフィール】
佐藤惠(さとう けい)平成19年生まれ、福島県出身。福島大学2年。福島大学俳句会所属。第77回福島県文学賞短歌部門青少年奨励賞受賞。東日本大震災・原子力災害伝承館ユースクリエイター。中高生表現型探究&研究型探究実践プログラム「福島学カレッジ」表現コース メンター。福島や東日本大震災をテーマに、短歌やアート、探究支援など多様な方面で活動。将来の夢は福島と添い遂げること。


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