のどかにも風力7の岬です
藤田哲史
藤田哲史は1987年三重県生まれ。「澤」を経て無所属。『新撰21』(邑書林、2009年)、『天の川銀河発電所』(左右社、2017年)に入集。句集に『楡の茂る頃とその前後』(左右社、2019年)。はじめは文語調、歴史的仮名遣いで書いていたが、次第に現代仮名遣いで書くようになり、今は専ら現代仮名遣い、口語調の文体を用いている。掲句のような「です」で終わる俳句は、藤田の文体の一つの達成である。
藤田の「です」終わりの文体の俳句(以下、「です」句)が初めてまとまった形で提示されたのは、第五回芝不器男俳句新人賞(2018年)に応募された100句(以下、第五回連作)だろう。その句群の一部は『楡の茂る頃とその前後』に収録され、藤田は以降も「です」終わりの文体での作句を行っている。藤田が言うには、「この文体は、切字の多用による音韻の反復の快感(たとえば、飯田蛇笏の『霊芝』、水原秋桜子の『葛飾』、岸本尚毅の『健啖』など)を、切字を使わない文体で実現しようとした試み」(週刊俳句第723号、2021年)であるそうだ。第五回芝不器男俳句新人賞の100句を全て「です」句でそろえ、第六回芝不器男俳句新人賞(2022年)で西村我尼吾奨励賞を受賞したときの句群(以下、第六回連作)でも25句連続で「です」句を配した(掲句〈のどかにも〉もそのうちの一句だ)。この「音韻の反復の快感」は、西村がいうところの「全ての俳句が静かな音で繋がっているようなイメージ」「映像がつながっていくためのバックミュージック」(第五芝不器男俳句新人賞最終選考会議事録、2018年)に繋がるのだろう。
残雪が標高三千の標です
卒業のあとの仄かな焦りです
鍵、資料、定期券、傘、余寒です
東京を冴え返らせた雨量です
弟に鰻をおごる日永です
のどかにも風力7の岬です
第六回連作から「です」句の並びの一部を引いた。「~です」は、ともすると、俳句ではしばしば忌われる「報告」となってしまう可能性もある。例えば、〈のどかにも〉句では、岬の風の強さを表すのに、主体が見た木の揺れや主体自身の体感ではなく、風速13.9〜17.1m/sで定義される風力階級「風力7」と言う。「標高三千」「雨量」「風力7」のように、主体の実感ではなく科学的、客観的な数値・基準を提示することで、句がニュースのようになってしまうかもしれない。その文体の極致が〈東京は三十九度の見込です〉(第五回連作、『楡の茂る頃とその前後』所収)だろう。気象予報の定型文のような「です」文体による日常性の中で、読者は滅多にない高気温「三十九度」に非日常感を覚える。連作では句末の「です」が淡々と出来事を描写していくことで、繰り返される日常の文体として機能する。その中で感じる「引っかかり」が、「日常の中の非日常」の抒情をもたらす。
しかし、藤田の(おそらく)最新の連作「コンソメ」(週刊俳句第916号、2024年)を見てみると、50句中「です」句は4句しかなく、しかもほとんど連続していない。そうなると、一句中の「です」の働きが問題になってくる。「です」句における「です」が、文語体の一般的な切れ字「かな」と置き換えられるか、という問題は当初から指摘されていた。「切れ」が藤田の俳句観において大きな位置を占めていることは週刊俳句での連載「評論で探る新しい俳句のかたち」(週刊俳句第500-518号、うち第507、510、515、516号は休載、2016-2017年)でも明らかで、その上で、「現代語による新しい俳句構文はありえるか」(週刊俳句第518号、2017年)という問いをたてる。ここでの「構文」は「構造」と区別されている。藤田はまず「切れ字」と「切れ」を峻別し、「切れ字」が「切れ」を生み出すのではない、また、「切れ」は「切れ字」を必要としない、とした。「切れ字」と「切れ」を切り離すために「切れ」を一句の中の「構造」の不連続性と言い換えると、「構文」は、「切れ」の強さの程度など「構造」の問題から一歩引いた、一句の中の「切れ字」を含む言葉の連続的な並びのことである(週刊俳句第509号、2017年)。とすると、藤田の「です」句は、下五を3:2に分割する「構文」を踏まえた上で、[体言+です]を下五に置く新たな「構文」の試みであったということになる。
「です」は連作を通底する響きとしてある句を連作中の他の句へと開くとともに、一句の中では俳句の新たな「構文」の試みであった。[体言+かな]が一句を「言い切る」形で「かな」の直前の体言を強く詠嘆するのに対して、[体言+です]の「です」は直前の体言を情報として提示するにとどまり、一句が「言い切られる」感じはしない。また、「です」は読者のエモーションに直接働きかける語ではなく、極論すれば句の内容に「です」それ自体は必須ではない、《空白》を埋める「とりあえずの二音」だ。
さて、「です」句のように十五音で情報が完結する文体として、前回取り上げたマブソン青眼の「無垢句」(五七三の韻律)が思い浮かぶ。藤田の「です」句とマブソンの「無垢句」の間には何ら影響関係はないだろうが、それぞれ異なる背景、志向で俳句形式の《空白》に到達したのは興味深い。藤田は《空白》を「です」で埋め、マブソンは《空白》を《空白》のまま提示した。ここまで前置きが長くなったが、本稿では、藤田の「です」句とマブソンの「無垢句」を対比しながら読解する。その際に軸となるのは、「です」句と「無垢句」のそれぞれがその形式に到達するまでの思考の経緯と、その反映たる俳句のありようだ。それらの類比・相違を検討することで、俳句形式における《空白》の力を考察する。
藤田哲史 第六回連作より
行くあてのない日々の暑さです
「コンソメ」より
緑蔭が吹かれ揉まれる彼方です
白白と花捲出来る淑気です
解け残る三日目の雪だるまです
試験官側の静かな眺めです
マブソン青眼『縄文大河』(本阿弥書店、2024年)より
遠雷や石棒のよこ頭骨
ポケットに石一個空青し
耳飾のらせん 先史の銀河
万の春瞬きもせず土偶
土偶を見る妻を見ている月夜
〔成立の対比〕
マブソンの「無垢句」は、本人が五七三をアニミズムの韻律であると直感したと述べているように、その成立は非常に曖昧でスピリチュアルだ。上五との非対称性ゆえ下三に生じる《空白》に、超時間的で無時間的な「あちら側」を感じたことが「アニミズムの韻律」の端緒なのではないか、ということは前回述べた。五七三はマブソンのスピリチュアルな個人的経験に基づく定型で、一句としての志向が高い。
一方、藤田の「です」句は、連作中で「です」という同じ音韻が繰り返される効果を試みていた。それだけでなく、[体言+です]という形の反復によって、現代語での新たな俳句の「構文」を定着させる実践であったと言えよう。その過程における俳句の「構文」や「切れ」への分析は、過去の俳句を参照するなど俳句の本質的な語法を理論的に捉えようとてしており、マブソンの個人的経験が生み出した「無垢句」とは対照的だ。
〔《空白》の対比Ⅰ〕
藤田の用語「構造」と「構文」の違いを改めて述べておく。「構造」は意味内容や言葉の作用が、一句の中でどのような形をとっており、どのように働くかを表す。たとえば取り合わせは、大まかに言うと季語と非季語のフレーズという「構造」を持ち、季語とフレーズの間の「切れ」が「構造」の不連続性として機能する。「構文」は、俳句の中で言葉がどのように並べられているかであり、〈古池や蛙飛こむ水のおと〉であったら[名詞①+や+……+名詞②]という「構文」になる。
メタファーや多行表記などいわゆる前衛俳句が「構造」から俳句にアプローチしたのに対して、藤田の「です」句は「構文」によって俳句の「構造」の本質をとらえようとする試みであった。文語体俳句の既存の「構文」に[……+体言+かな]がある。この「構文」では「かな」によって句末に「切れ」が生じ、一句が言い切られるという「構造」を持つ。「かな」という強い言い切りはその句の後ろを一切「無」とする。「かな」という言葉の余韻はこの「無」に反響するものであるが、一句が終わったあとの「無」には、句を「組成」するものとしての時間は存在しない。「かな」が一句の後ろに「無」を生み出すことを踏まえると、「かな」俳句の「構文」は、[……+体言+かな+□]という真の姿を現す。
「です」は「かな」ほど言い切る力を持たない、直前の体言を情報として提示する語だ(それはしばしば「です」句が単なる報告であると評される所以でもある)。俳句を言い切る力が弱い「です」は一句の後ろに「無」をつくることは出来ないが、そもそも「です」の意味の希薄さゆえに、それ自体が「無」となることができる。「です」は単なる「かな」の言い換えではなく、「かな」が生み出していた「無」までも引き受け[……+体言+です=□]という「構文」を成す句末なのだ。「です」は直前の体言を、あくまでも現在にあらしめる。「です」という《空白》が持つ時間性は、句が読まれるたびに立ち上がる体言の映像を、何度も現在に係留するのだ。
一方、「無垢句」の《空白》を「構文」であらわすと[下三+□]だ。一句の後ろに《空白》を生む点では[かな+□]と類似しているが、「無垢句」の《空白》は言い切りによって生じるのではなく、上五との非対称性によって下三の後ろにあるように感じられるものだ。非対称性のため、五七三で終わったはずの俳句が、あたかも一句の後ろの《空白》まで含んでいるかのようにも思われる。「無垢句」の《空白》は一句の後ろにあるために無時間的でありながら、一句を超越してその《空白》にも時間が存在するように感じられる。ここで、無時間であるはずの《空白》に時間を錯覚することで、その時間はただ今現在のものであるだけでなく過去や未来に変容することができ、過去・現在・未来が渾然一体となった超時間性を持つ。
「です」句の「です」は「在りながらも無い」という《空白》、「無垢句」の下三は「無いながらも在る」という《空白》である。この「ながら」をキーワードにこれらの《空白》は類似しているが、前者は「在りながら」、後者は「無いながら」を基盤にしているという相違がある。これは「構文」の問題だ。つまり、「です」は確かに一句の中に存在し、下三の後ろの《空白》は一句の中には存在しない。この相違が、《空白》が事物を現在に引き留めるか、あるいは過去や未来までも反響させるかという、《空白》の時間性の相違という「構造」上の効果をもたらしているのだ。俳句形式における《空白》の効果が、「ながら」に見られるような「無」と「有」の葛藤や、そこに生じる時間性であることも示唆される。
〔《空白》の対比Ⅱ〕
では、句末を「です」にしたり五七三の韻律を導入したりしなければ、俳句で《空白》の力は発揮されないのだろうか。特別な叙述法を必要としない、俳句に普遍的な《空白》の力はないのだろうか。
「無垢句」の五七三のアニミズム性について、上五との非対称性ゆえ下三に生じる《空白》に、超時間的で無時間的な「あちら側」を垣間見ることであると述べてきた。しかし、この「非対称性」には一考の余地がある。五七三の韻律に非対称性が意識されるのは、[上五+中七+下三]という形が明確であり、下三が上五に対するものとして認識されるときだ。しかし、実際の「無垢句」はその限りではなく、〈ポケットに石一個空青し〉の句跨りや〈耳飾のらせん 先史の銀河〉の一字空けのように言葉の並びが五七三の韻律からずらされている句もある。これらの句、特に〈耳飾〉句では下三の後ろの《空白》どころか下三でさえあまり意識されない。また、句跨りの技法は、例えば芭蕉〈海くれて鴨のこゑほのかに白し〉や虚子〈人を見る目細く日向ぼこりかな〉のように、従来の俳句にも見られる。ここに、より普遍的な俳句の語法の力があらわれているように思われる。つまり、韻律の切れ目を言葉で跨ぐことで生じる、定型の連続性/非連続性と言葉の連続性/非連続性の「ずれ」である。この「ずれ」は句中の強弱の「切れ」によって意識され、「切れ」の存在は一句の中で《空白》としての機能(葛藤と時間)を持ちうるのではないだろうか。〈ポケットに石一個空青し〉では、「石一個」と「空青し」に意味上の「切れ」が存在し、「空」と「青し」の間には中七と下三間の「切れ」が存在する。この二つの「切れ」のずれによって、定型通りに読もうとする読者は「空」で一度立ち止まり、一句を読む時間の濃度が均一ではなくなる。二つの「切れ」に挟まれ、言わば一句から切り取られた「空」に読者は立ち止まることで、一句中の「空」の時間がその濃度を増す。芭蕉の〈海くれて鴨のこゑほのかに白し〉句なども、「ほのかに」の中七と下五を跨いでたっぷりと豊かに流れる時間が、「白し」のシャープさを際立てる。
では、藤田の「です」句はどうだろうか。「です」句は句末が必ず[体言+です]だが、〈行くあてのない日々の暑さです〉〈解け残る三日目の雪だるまです〉のように、必ずしも五七五の韻律と言葉の並びが一致しなかったり句跨りを用いたりする句もある。〈解け残る〉句には句跨りがもたらす時間の濃度の効果が認められる。〈行くあての〉句は、上から読んだとき、「ない日々の」の二音の字足らずを「暑さ」の「あつ」という音が埋めるようにも感じられ、「日々」の時間経過の速さを思わせる。同時に、定型の「切れ」のために下五としての「暑さです」も意識され、〔《空白》の対比Ⅰ〕でも述べたように、過ぎゆく日々のなかで今現在の「暑さ」も在るものとして知ることになる。
世界を瞬間として切り取るべきという俳句実作上の一つのセオリーは根強く、私自身ある程度同意する。今回は、実作と読解を切り離そうと思い、二つの全く影響関係の無いであろう形式を並べた読解を試みた。《空白》を意識することは、俳句を瞬間の定着としてではなく、むしろ時間の流れの中に開かれたものとして読む可能性を示す。藤田の「です」句とマブソンの「無垢句」は、それぞれ異なる仕方で時間を内在しながら、どこか俳句の普遍的な力を指し示す。俳句における《空白》の力とは、単に言葉の欠如を指すのではなく、言葉、さらには形式の余白の中に見えないものを立ち上げる働きにほかならない。こうした視点から俳句を読むことは、既存の枠にとらわれない柔軟な読みの可能性を広げるとともに、俳句という詩型を改めて考えさせるものである。
(関灯之介)
【執筆者プロフィール】
関灯之介(せき・とものすけ)
2005年生れ。2020年秋より作句。楽園俳句会、東大俳句会所属。第1回鱗kokera賞村上鞆彦賞、第12回俳句四季新人賞、第3回楽園賞準賞。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【2025年2月のハイクノミカタ】
〔2月1日〕山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子
〔2月2日〕歯にひばり寺町あたりぐるぐるする 平田修
〔2月3日〕約束はいつも待つ側春隣 浅川芳直
〔2月4日〕冬日くれぬ思ひ起こせや岩に牡蛎 萩原朔太郎
〔2月5日〕シリウスを心臓として生まれけり 瀬戸優理子
〔2月6日〕少し動く/春の甍の/動きかな 大岡頌司
〔2月7日〕無人踏切無人が渡り春浅し 和田悟朗
〔2月8日〕立春の佛の耳に見とれたる 伊藤通明
〔2月9日〕はつ夏の風なりいっしょに橋を渡るなり 平田修
〔2月11日〕追羽子の空の晴れたり曇つたり 長谷川櫂
〔2月12日〕体内にきみが血流る正坐に耐ふ 鈴木しづ子
〔2月13日〕出雲からくる子午線が春の猫 大岡頌司
〔2月14日〕白驟雨桃消えしより核は冴ゆ 赤尾兜子
〔2月15日〕厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣
〔2月16日〕百合の香へすうと刺さってしまいけり 平田修
〔2月18日〕古本の化けて今川焼愛し 清水崑
〔2月19日〕知恵の輪を解けば二月のすぐ尽きる 村上海斗
〔2月20日〕銀行へまれに来て声出さず済む 林田紀音夫
【2025年1月の火曜日☆野城知里のバックナンバー】
>>〔1〕マルシェに売る鹿の腿肉罠猟師 田中槐
>>〔2〕凩のいづこガラスの割るる音 梶井基次郎
>>〔3〕小鼓の血にそまり行く寒稽古 武原はん女
>>〔4〕水涸れて腫れるやうなる鳥の足 金光舞
【2025年1月の水曜日☆加藤柊介のバックナンバー】
>>〔5〕降る雪や昭和は虚子となりにけり 高屋窓秋
>>〔6〕朝の氷が夕べの氷老太陽 西東三鬼
>>〔7〕雪で富士か不二にて雪か不尽の雪 上島鬼貫
>>〔8〕冬日宙少女鼓隊に母となる日 石田波郷
>>〔9〕をちこちに夜紙漉とて灯るのみ 阿波野青畝
【2025年1月の木曜日☆木内縉太のバックナンバー】
>>〔5〕達筆の年賀の友の場所知らず 渥美清
>>〔6〕をりをりはこがらしふかき庵かな 日夏耿之介
>>〔7〕たてきりし硝子障子や鮟鱇鍋 小津安二郎
>>〔8〕ふた葉三葉去歳を名残の柳かな 北村透谷
>>〔9〕千駄木に降り積む雪や炭はぜる 車谷長吉