
星空は無音の瀑布鯨飛ぶ
神野紗希
「瀑布」という言葉がはらむ垂直性、あるいは漢語特有の硬質な響きは、日常的な言語空間からはかなり遠い場所にある。ばくふ。それは「滝」のことを意味するが、ここでは天の川を垂直に反転させたかのような、日常から切断された海上の星空が目に浮かんでくる。「星が落ちそうな夜だから/自分をいつわれない」は、山崎まさよしの「One more time,One more chance」(1997年)の歌詞の一部。この句の前半部も、自分がちっぽけに思えるほどの大自然を讃美しているように見える。
そのような視覚的体験は──それが実景であったとしても「無音の瀑布」というメタファーを借りることによって──極限まで純化され、必然的に想像的、幻想的な領域へと踏み込む。「鯨飛ぶ」という措辞は、この幻想の強度をさらに加速させる。生物学的に見れば、巨大な体躯ゆえに完全な睡眠をとらず、肺呼吸であるがゆえに水面と不可分である彼らが空を飛ぶことはありえない。
しかし、言葉の平面上で「鯨飛ぶ」という言葉が定着した瞬間、夜空は海域へと反転し、「瀑布」のような星の飛沫と交錯する。冬の季語である「鯨」をあえて配しながら、季語本来の季節感を脱色し、むしろ「飛ぶ」という動的な運動性によって夏の夜の熱狂や浮遊感を孕ませる。この幻想の上に幻想を重ねる手つきは、単なる現実逃避ではなく、季語の拘束力から逃れることで獲得される批評的な遊戯であるだろう。
翻って、近代以降のポップカルチャーにおける「空飛ぶ鯨」の表象を点検することは、この句の深層を照らし出す作業となる。
ところで、大瀧詠一の初期作に「空飛ぶくじら」という短い曲がある。1972年の曲だ。
《空飛ぶくじらが/ぼくを見ながら灰色の街の空を/横切っていくんです》
市の灰色の空を横切る巨大な鯨。それは高度経済成長の黄昏において、人間社会のスケールを逸脱した存在として描かれる。蛇足ではあるが、この楽曲のB面は、松尾芭蕉の句を下敷きにした「五月雨」だった。〈五月雨をあつめて早し最上川〉の句から取られたものである。
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