
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ
森澄雄
先週に続けて「妻」と「共有」の俳句を読み解こうと思う。個人的な実感こそないものの、一番身近な他者と寄り添う中で見えてくるもの、そこから書き記そうと思う感慨には人と人とが関わり合う上での重要な視点が残されているように感じてならないからである。
掲句は秋の夜長について言葉を交わす夫婦を描写し、下五では夫である主体の意識の動きを表している。妻のこの頃の夜が長いという自然な感慨を耳にした夫は、自然に共感する。上五「ゐて」には、言葉を聴いて、共感して、それから現れたような妻という存在への深い認識をしたという解釈の余地がある。時系列順に描いて、深い理由なく目をやっていた妻が口を開き……という読みも可能であろうが、切れのリズムや念を押していくような丁寧な書き方、指示語などから、時間の幅を存分に感じることによって瞬間が際立ち、いま自分の身を置いている空間を広く深く認識した主体の姿を想像した。
似た題材の有名な作品として、
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智
である。純雄句と並べると、会話の発端の主客は反対になっており、応答する側が既に寒さを深く実感していた(主体からの呼びかけによって実感が変わった要素は限りなく少ない)であろうことなどの違いが見受けられるものの、1人の主観を言葉によって共有して、2人の共通の感覚であることを認識する点が感動の中心であることは同じと言ってもいいだろう。
ところで、私は自分自身の身体感覚に疎い自覚がある。俳人としては致命的な気がするが、そもそも生物としてもかなり危うく、何となく不調であるときにそれが暑さゆえなのか寒さゆえなのか、はたまた空腹ゆえなのか……の判断をおおよそ誤って状態を悪化させがちである。この時、隣に同じ時間を過ごす家族や友人がいれば、共感のための言葉を交わしていく中で自分の状況も整理できるため大変助けられている。「寒くなってきたね」などと言われればそのような気がしてくる体験を日々繰り返しているため、掲句の主体の急に夜長を感じる心地はよくわかる。
言葉にすることで共有できる感覚があるのだとしたら、我々の表現の手段である俳句は、文字や画像がすぐ伝達できる時代にも、まだまだ多くの可能性を秘めているのではないだろうか。短くて全てを言い表すことができないからこそ言葉を磨き、モノや比喩に心情や感覚を託す。そうすることで、夜が長いことや、それをつぶやく妻に対する気持ちまでもを時空間を越えて感じ取ることができる。わずかに姿勢が変わるような小さく確かな感動を伝え続けたいし受け取り続けたい。
(野城知里)
【執筆者プロフィール】
野城知里(のしろ・ちさと)
2002年埼玉生。梓俳句会会員、未来短歌会会員。第12回星野立子新人賞、第70回角川俳句賞佳作。
【管理人より】ハイクノミカタ(2025.1月-2月)連載分もお見逃しなく!(全8回)
