戀の數ほど新米を零しけり 島田牙城【季語=新米(秋)】

戀の數ほど新米を零しけり

島田牙城
『誤植』

 島田牙城氏は、俳人としても編集者としても超有名である。作者の経歴を紹介したいところだが、Wikipediaが長すぎるため、1分(速読)で分かるように要約してみた。

 昭和32年、京都市生まれ。昭和48年、16歳の頃に俳句を始め、波多野爽波に師事。爽波主宰「青」に投句。昭和49年、同級生たちと「童(がき)俳句集団」を結成。昭和52年には「がきの会」と改称し、俳句同人誌「東雲」を創刊。「がきの会」には、田中裕明がいた。同年、二浪ののち関西大学文学部哲学科に入学。4年後に中退。昭和54年、22歳の頃、「青」の編集長に就任するも、翌年には辞任し退会。昭和56年、24歳の頃、東京へ転居。牧羊社に就職し、「俳句とエッセイ」を編集担当する。その後は、複数の出版社を転々とし編集経験を積んだ。東京では同人誌「無門」参加を経て、石寒太主宰「炎環」の編集長になるも退会。昭和59年、27歳の頃には、小句集『火を高く』を出版。平成元年、32歳の頃、邑書林に共同参画の形で入社。後に代表取締役編集長となる。平成8年、今井聖主宰「街」創刊に参加。爽波門下が集う「洛」にも投句。平成10年には、夏石番矢が代表を務める「吟遊」にも在籍した。平成11年、42歳の頃、長野県佐久市に転居。平成12年、43歳の時、第一句集『袖珍抄』出版。翌年、第一回雪梁舎俳句大賞受賞。平成14年、46歳の頃、同人誌「里」創刊。「里」からは多くの有力俳人を輩出した。邑書林編集者としては、数々の俳句関係書を手掛けているが、平成21年、22年に刊行された若手俳人アンソロジー『新撰21』『超新撰21』では俳壇中の注目を集めた。平成23年、54歳の頃、第二句集『誤植』を出版。その後、関悦史、北大路翼、堀田季何などの若手俳人の句集をプロデュースし、世に売り出した。また、中西其十や平松小いとゞなどの過去の俳人の再発見や再評価、季語の発掘など、研究者としての側面を持つ。「里」の特集企画も話題を集めた。平成27年、兵庫県尼崎市へ転居。平成31年「里」休刊。令和3年、「里」復刊。令和7年「里」終刊。邑書林は絶讃営業中。

 私が島田牙城氏と最初に出会ったのは『超新撰21』の出版パーティーの時であろうか。第一印象は「昔の恋人に似ている人」であった。とにかく飲んでいる。注いだビールは数秒どころか1秒で飲み干す。場を盛り上げる天才。二度目に会ったのは、小諸日盛俳句祭の時。当時私は、夫になる人と秘密の交際をしていた。というのは大嘘で、吟行でも句会でも始終一緒にいたから速攻でバレた。二日目の朝に旅館から二人で出てきたところで、ばったりと出くわした。牙城氏は、ビニール袋がはち切れそうなほどの缶ビールを持っていた。「懐古園の動物園で飲もう。動物を見ると俳句がたくさん詠めるぞ」という。「まだ朝の9時ですので、懐古園を一回りしたあとで合流します」と後の夫が答えた。そのあと私達は、道すがら出会った若手女性俳人二人と共に懐古園を歩いた。11時頃に動物園に到着。鷺の檻の前のベンチで、缶ビールをあおっている牙城氏がいた。女性俳人二人に「桃を買ってきたから食え」という。短パン姿の美貌の女性俳人が腿を濡らしながら桃を齧る姿が印象的であった。12時近くなってすでに酩酊している牙城氏が「蕎麦を食べに行こう」という。出口に向かう途中で、有名男性俳人をナンパ。駅前ではイケメン俳人をナンパ。桃太郎の鬼退治のごとく俳人をぞろぞろ引き連れて蕎麦屋に入った。当然ながら蕎麦屋でも飲む。そんなこんなで、句会場に到着したのは投句締切5分前であった。

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