こほろぎや女の髪の闇あたたか 竹岡一郎【季語=蟋蟀(秋)】



こほろぎや女の髪の闇あたたか

竹岡一郎
(『蜂の巣マシンガン』)


立冬を過ぎて最初の月曜日だが、東京は暖かい日が続いており、虫の音も復活し、関西では金木犀が匂っているとのこと。鈍感な私は、冬を納得出来ず、秋の恋をいまだに引きずっている。

髪は女の命と言われているが、男は髪の長い女が好きだ。平安時代には、髪の長さは美女の条件の一つであった。女が縁側に横付けされた牛車に乗り込む時、髪の先がまだ敷居内に残っていたという描写が美しさを語る表現となるほどである。絵巻を見ても分かる事だが、平安時代の女の髪はストレートで長い。そして癖毛は、恥じる風習があった。清少納言も『枕草子』にて癖毛を恥じていたと思われる記述を残している。

実は私も癖毛である。幼い頃より癖毛を男の子に馬鹿にされた経験もあり、大学時代は縮毛矯正をかけ、ストレートの黒髪を自慢としていた。癖毛には癖毛なりの良さがあるのだが、癖毛コンプレックスを抱いていた私は、艶やかなストレートの黒髪を追い求めたのである。それが、私の顔立ちに似合っていたのかどうかは、関係ない。女の髪は、黒髪のストレートが良いと思い込んでいた。ショートカットの女性にも憧れたが、色白の一重目蓋で、下ぶくれの私は平安美女を目指すこととなった。大学時代に付いたあだ名は「平安人」。ちなみに私の母は、若い頃は「室町美人」と言われていたらしい。おかめ納豆のパッケージみたいな顔。さすが納豆の聖地である水戸藩出身の女だ。

『ゴールデンカムイ』という漫画の中で癖毛の少女に少年が恋をするシーンがあった。その漫画の影響もあり、今は、私の癖毛をからかった幼馴染みの男の子を愛おしいと思える。 誰にでも些細なコンプレックスはあり、そのコンプレックスを愛してくれる異性と恋をすれば良かっただけのことだったのだ。

独身時代は、金融業の会社に勤め、縮毛矯正とカラーリング、トリートメント、カット代で、月に2万もの出費をしていた。女の髪の維持費を男は知るよしもない。

夫と結婚し、夫が「素のままの君が一番魅力的だ」と言ってくれた。化粧をして癖毛の髪を伸ばし、痩せて見える服を着て気張っている私は、「自分が恋した女ではない」と言いたかったのだ。月に2万の美容費を掛けて、似合わない髪型をしている自分を諫めてくれたのだろう。

それから6年間、私は美容院に行っていない。眠っている私の無防備な癖毛をちょっと面白がっている夫がいる。色白で下ぶくれの私の顔には、ふわりと波打つ癖毛が似合っているのかもしれない。

  こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎

瀬戸内寂聴の『髪』という小説を思い起こさせる一句。『源氏物語』の「夢浮橋」の外伝的な内容であるが、入水した浮舟を助けた横川の僧都が浮舟の髪にエロスを感じつつ剃髪する場面の描写が凄まじい。生き身の女人の髪が生き物のようにうごめき、その生温かい髪に女の命を感じる。その髪を切り取った瞬間の僧都の描写が読者を恍惚へと導く。素晴らしい筆力である。

ちなみに人間の頭皮は、温度調節機能があるという。冬場は、頭を温めておけば身体が冷えない。夏場は、頭を冷やせば熱中症を予防できるという。正装の際に帽子が欠かせないのもそのためである。髪が多い上に癖が付きやすい私は、帽子が嫌いだ。だが、夫の一族は頭を守るための帽子を必ず被る。夫の一族は皆、彫りの深い顔立ちで帽子が似合うのが羨ましい。癖毛で平たい顔族の私は帽子が似合わないので雪の日でも帽子を被らない。夫が、雪の日に「帽子を被りなさい」と言って私の髪に指を差し入れた時、「髪が豊かな家系に生まれた君には分からないかもしれないが」と言った。

40歳を過ぎ美容院に行かなくなった私の癖毛の髪を夫が撫で「指先の冷えを暖めるには、丁度良い熱量である」と言った。その枕元では蟋蟀が恍惚と鳴いていた。蟋蟀が鳴く夜寒の頃、清貧の暮らしのなかで、夫の指先が温まるのであれば、私の癖毛、黒髪も役に立っているのだろう。しかし、女の髪の闇には、男には、計り知れない怨念が宿っているのだ。6年間も美容院に行けない癖毛の黒髪が、蛇になる日も近いのである。

篠崎央子


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


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