かひやぐら息苦しきは腕枕 野村茶鳥(「愛鍵」)
掲句は「愛鍵」掲載のエッセイによれば、「二度目の結婚をイメージして作った」連作のなかの一句とのこと。茶鳥さんは「未来図」退会後に離婚し、その後再婚して海の見えるタワーマンションに暮らしていたらしい。そして、「ふたり目の夫」とも離婚し、鱗kokeraをオープンするに至る。エッセイの最後には、「これは供養の連作です」とも記されている。供養といっても相手が亡くなったわけではなく、手放した愛に対する供養という意味である。
〈かひやぐら〉とは、蜃気楼のことで春の季語である。中国の伝説で、蜃という大蛤が気を吐いて楼閣を描くと考えたことから、その現象を蜃気楼と呼ぶようになった。そこから貝櫓(かいやぐら)という名称も生まれた。日本では富山湾が有名であるが、東京湾でも対岸の建物が浮かんで見えることがあるらしい。掲句の〈かひやぐら〉は、タワーマンションから見えた対岸の建物を蜃気楼のように見立てて詠んだのであろう。
20句の連作に物語性を見出すのであれば、〈かひやぐら〉の句は、その前後の句から察するに、結婚生活が始まって少し経過した頃のことを詠んだ句ということになる。〈腕枕〉は、通常であれば安心感を詠むはずなのだが、息苦しさを感じたところがリアルである。確かに、首がしっくりと収まらなかったり、肩に顔を埋めていると呼吸がしづらかったりするものだ。交際中には心地よく感じていたものが、結婚した途端に息苦しさに変わる場合もある。
絨毯に坐せばまばゆき不夜の街 茶鳥
不夜の街を見下ろすタワーマンションの部屋も圧迫感があり、息苦しさを感じていたのかもしれない。
菜の花がみづから枯れてゆく夕映 茶鳥
結婚自体に息苦しさを感じはじめていたともいえる。恋をしていた頃は、永遠の輝きに満ちていた菜の花。その菜の花も結局は自ら枯れてゆくのである。結婚生活の中にほころびが見えてきたのだ。
まんなかに蜜あるけはひ朧月 茶鳥
それでも蜜月は存在した。その蜜も朧に包まれている。かぐや姫は、結婚しながらも月ばかり眺めていたのだ。相手からしたら、いついなくなってしまうのか不安であったろう。作者がしっかり者だけになおさら距離を感じていたのではなかったか。
連作の句は、回想の句である。今にして思えばという冷静な視点で詠んでいる。タワーマンションもそこから見えた景色も結婚生活自体も蜃気楼のようなものだったのだ。だけれども、息苦しさだけがリアルに残っている。
いつだったか茶鳥さんがぽろりと呟いていた。「結婚に向いていなかったのよ私は」と。一人で旅行するのが好きで、何物にも縛られたくない性格の茶鳥さん。そんな自由を愛する茶鳥さんが新たに選んだパートナーは、灰花(ぐれか)という名の猫であった。犬ではなく猫なのが茶鳥さんらしい。猫もきっと、程よい距離で接してくれる茶鳥さんとの生活を居心地よく感じていることだろう。
月に棲む想ひ残しを食べる蟻 茶鳥
連作の最後の方に登場する句である。難解だが詩情性の高い句である。〈月に棲む〉とは、タワーマンションの部屋のことであろうか。月に棲んでいるかのように高く、明るい一室。東京の夜景と海が見下ろせる部屋。誰もが憧れるような生活であったが、作者には息苦しかったのだ。かといって、そこでの結婚生活に全くの未練がなかったわけではない。わずかに残っていた未練は、蟻が食べてしまった。小さい蟻が食べられる量はそんなに多くはない。時間をかけてゆっくりと消えていったのだ。
月に帰りたくて月ばかり眺めていたものの、実は結婚生活こそが月の世界だったのである。今は、月に帰らなくてもよくなったかぐや姫が自由に呼吸をしている。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。

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