山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子【季語=山眠る(冬)】

山眠る海の記憶の石を抱き

吉田祥子

10年ほど前までは入眠に大変な苦労をしていた。夜は眠れず、昼が眠い。毎日飲み歩いていたわけでは決してなく、仕事の多さに加えて心労を抱えていたからだ。良くも悪くも、心が穏やかでないと眠るのが難しい。悩んで眠れないこともあれば、明日の遠足が楽しみで眠れないこともある。

勤務先の近くにあった医院の先生はどの症状を訴えても「悩みが多いよね。睡眠とった方がいいよ」と入眠を助ける薬を処方してくれた。確かによく眠れて疲れもとれたが、朝起きることに大きな支障が生じたため服用をやめた。一時期は週末だけ服用したりしていたが、結局週末の予定が飛んでしまったりしたのですっかりやめてしまい、薬の名前も思い出せない。今はもうその医院はない。

好立地の医院なので患者も高所得の人が多いはず。だとするとなるほど、収入の多い皆さまはいつも悩みが多く、それを睡眠で解決しているのですね…と中流の今の生活に小さく感謝したのである。

今日は医師ではなく石の話を。

山眠る海の記憶の石を抱き

海底が隆起して山が出来ること自体は広く知られているのでその事実を挙げただけではあまり驚きがないが、この句はそれにとどまらない深い洞察があるゆえ心を打つものがある。

「海底の石」などではなく「海の記憶の石」とすることでその石が刻んできた悠久の歴史が現れる。山にいた時間より海にいた時間の方が長かったのではないかという気もしてくる。石一つのことに過ぎないのだが、まるで人格があるかのようだ。

もう帰ることのないだろう海の記憶を蔵した石。その石を抱くという構造は、身重の母が深い眠りに落ちている構図と重なる。胎児は遺伝子という大いなる記憶を宿している。

石の記憶が「山眠る」に時間的な奥行きを与えている。「記憶」の一語が「山眠る」からのゆるやかな橋渡しになっているのだ。

山と石の関係は母と子に通じるものがある。通じるものがあるだけで別物だということはさすがに否定しないが、「抱く」ように見えたのであればそれは全く無関係とはいえないだろう。もしかしたら作者はその石を抱きしめてしまったのではないだろうか。そのくらい石への愛着を感じる。

マクロとミクロ、抽象と具体のバランスが絶妙な一句。この句の山にもなりたいし、石にもなりたいというおかしな欲望が湧いたことを隠さず綴っておきます。

『しなやかな線』(2023年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



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