私と神保町ーそして銀漢亭
飛鳥蘭(「銀漢」同人)
プロローグは、昭和30年代に遡る。
神保町の隣の猿楽町、山の上ホテル裏を下った錦華公園付近に、父が小さな工場を持った。当時地下鉄はなく、神保町界隈はJRお茶の水か水道橋が最寄り駅であり、辺りに幾つもの大学があって、日本のカルチェラタンといわれていた。小学校低学年の私は父の仕事について殆ど知らない。いつだったか夏休みの宿題で、一度だけその工場へ行ったことがある。舶来の大型機械を入れたとかで、嬉しげな父の顔を覚えている。思い出すに昼食は、「揚子江菜館」であったかと。
実家の生業は印刷業であった。当時神田のこの界隈には、中小の印刷関係の業者が犇くように軒を並べていたそうだ。戦後の高度経済成長期を経て紆余曲折を凌いで、父は八十歳まで現役を通した。引退の少し前、有楽町、新宿等にあった営業所を、神保町の今の城南信金の奥に開設した。たまたまだが、銀漢亭開店と同じ年であった。
今更ながら父に、家族を支えてくれたこの地に、感謝している。
さて、実際に私が神保町に足を運ぶ事になったのは、大学で国文学を専攻したから、と言える。友達と連んで、又はひとりで古本屋街をうろつき、「さぼうる」でお茶というのがパターンである。決して勉強家ではなかったが、三田界隈神保町界隈に私の青春があった。
平成21年、私は拙句を纏めた句集を編んだ。俳誌の編集者から、書評を載せる旨、うち一人はご希望の方に、とご連絡を頂いた。
「伊藤伊那男さんは?」「いいですね」。一面識もないながら、母校の句会の会報誌で伊那男さんの作品に注目していた。「銀漢」創刊以前だったと思う。そんなご縁でご挨拶方々銀漢亭へと願いつつ、来店は数年後のことになった。初回から店内の沢山の方々と挨拶を交わし、早速句会に誘って頂いた。以後、「Oh!花見句会」「Oh!つごもり句会」等々に参加させて頂くことになった。片手にグラスを持ちながら、いつも三密どころか密々の成会ぶりであった。
常連ではなかったが、ここは私にとってひとりでも入れる数少ない居酒屋であった。ドアを開けると、まずカウンター越しの女性が笑顔を向けてくれる、ほっとする。最初の時も、結果的に私の最後の銀漢亭も、カウンターには谷口いづみさんがいらした。
銀漢亭で残念なのは、折角話が盛り上がった時に誰かがお摘みを注文すると、亭主が厨房に入ってしまうことだった。とはいえ客同士がどこの結社とかは関係なくどんどんと繋がっていく不思議な有難い空間であった。そして私もその恩恵に与かったひとりである。
エピローグはやってきた。父の七回忌の年、平成29年に会社を清算した。それ以上に銀漢亭の閉店は残念だが、今の伊那男主宰の活躍を思えば、良い決断だったに違いない。
伊那男主宰がいて、俳句仲間がいて杯をあげれば、そこはいつでも「銀漢亭」である。
【執筆者プロフィール】
飛鳥蘭(あすか・らん)
平成3年 上田五千石に師事
俳句を始める
同人誌参加を経て
平成26年「銀漢」購読会員になる
令和2年より「銀漢」に投句
【神保町に銀漢亭があったころリターンズ・バックナンバー】
【11】吉田林檎(「知音」同人)「銀漢亭なう!」
【10】辻本芙紗(「銀漢」同人)「短冊」
【9】小田島渚(「銀漢」「小熊座」同人)「いや重け吉事」
【8】金井硯児(「銀漢」同人)「心の中の書」
【7】中島凌雲(「銀漢」同人)「早仕舞い」
【6】宇志やまと(「銀漢」同人)「伊那男という名前」
【5】坂口晴子(「銀漢」同人)「大人の遊び・長崎から」
【4】津田卓(「銀漢」同人・「雛句会」幹事)「雛句会は永遠に」
【3】武田花果(「銀漢」「春耕」同人)「梶の葉句会のこと」
【2】戸矢一斗(「銀漢」同人)「「銀漢亭日録」のこと」
【1】高部務(作家)「酔いどれの受け皿だった銀漢亭」
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】
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