季語【春菊】
食材として鍋やおひたしに使われる。
「これ。」と言って妻が一枚の紙を差し出した。
その日は私の、43年間にわたる会社勤めの最後の日だった。
送別会をさせてください、という後輩たちの申し出をことわり、
家に帰って妻の作ってくれた夕飯を食べ終わったところだった。
その紙の左上には「離婚届」と書かれている。
「43年間、本当にお疲れ様でした。でもね。私も疲れちゃった。
あなたが会社を終わる時に、私もこの生活を終わらせようと思ったの。
お友達が仕事を手伝って、って言ってくれて…」
妻はその後も言葉を続けたが、
私の頭は真っ白になり、何も受け付けようとしなかった。
「一ヶ月、考えさせてくれ。」
絞り出すように答えるのが精一杯だった。
どうしてこうなったのだろう。何がいけなかったのだろう。
私は答えの見つからない問いを繰り返した。
思い出すのは、妻と過ごした何でもない時間。子どもたちが成長していく日々。
平凡かもしれないが、かといって不満を感じたこともない生活。
何もかもが、当たり前だと思っていた。
その、当たり前だと思っていた私の気持ちが、態度が、
妻の心を少しずつ削り取っていったのかもしれない。
思えば私が家のことをすることなど一度もなかった。
私は仕事をして給料を家に入れて、妻が子育てと家事をする。
それが当たり前だと思っていた。
世の中の価値観が大きく変わりつつあることは知っていたが、
うちはそれでいいのだと思っていた。
「定年から始める男性料理教室」という貼り紙を見つけたのは、
自分のための弁当を買いに行ったスーパーの掲示板だった。
「春菊を使った簡単料理」と書いてある。
妻は春菊が好きだった。おそらく。
「春菊って主役になることは少ないけど、ないと寂しいでしょ。
そういうところが好きなのかも。」
寄せ鍋の春菊を箸で摘んで、妻がそんなことを呟いたことを覚えていた。
私は料理教室の電話番号を手帳にメモした。
料理教室は、キッチンのある公民館の一室で行われた。
講師の女性は、きびきびと話す、陽気な中年の女性だった。
生徒は私と同じような年代の男性五人だけ。
少しずつ距離をとって立ち、何を話すでもない。
男性は、相手の社会的な立場がわからないとどう話していいかわからない、
という内容の記事を何かで読んだことがある。
我々生徒は講師の女性の指示に従い、何とか規定のレシピを作り上げた。
春菊の牛肉巻き、春菊の混ぜご飯、それに春菊としめじのスープ。
はじめてにしては上出来ではあったが、
試食の時にも会話が弾むわけではなかった。
「何か、あったのですか?」
料理教室を終えて帰る時、
私のあまりにも暗い様子が見捨てて置けなかったのか、
講師の女性が私を呼び止めて尋ねた。
私はことの経緯を話した。
定年退職のその日に離婚を告げられたこと。
妻の離婚の気持ちが変わるなどということはきっとないこと。
最後に、私の謝罪と感謝の気持ちを伝えたかったこと。
「…だから最後に、妻の好きな、春菊づくしの料理を食べてもらいたかったんです。」
私は、込み上げてくる嗚咽を止めることができなかった。
「春菊…づくし?」
講師の女性は小さなため息をつき、私を見つめた。
「まず奥様に、春菊だけ、の料理を一緒に食べたいかどうか聞いてください。
もし食べたくない、と言ったら、その気持ちを尊重してください。
今まで、奥様の気持ちを聞いたことがありますか?
それについて、話し合ったことがありますか?」
私は答えることができなかった。
「すべては、相手の話を聞くことから始まります。
どんな結果が待っているとしても、
あなたの新しい人生は、そこからスタートするんです。」
春菊や料理教室みな男
仲谷あきら
※気になる一句から膨らむストーリーを書いていきます。作者の人生、作句の背景とは、全く関係がありません。その点ご理解、ご容赦いただけると幸いです
(小助川駒介)
【執筆者プロフィール】
小助川駒介(こすけがわ・こますけ)
『玉藻』同人。第三回星野立子賞受賞。
星野椿先生主催の超結社句会「二階堂句会」の司会進行係。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【2024年4月の火曜日☆阪西敦子のバックナンバー】
>>〔119〕初花や竹の奥より朝日かげ 川端茅舎
【2024年3月の火曜日☆鈴木総史のバックナンバー】
>>〔14〕芹と名がつく賑やかな娘が走る 中村梨々
>>〔15〕一瞬にしてみな遺品雲の峰 櫂未知子
>>〔16〕牡丹ていっくに蕪村ずること二三片 加藤郁乎
【2024年3月の水曜日☆山岸由佳のバックナンバー】
>>〔5〕唐太の天ぞ垂れたり鰊群来 山口誓子
>>〔6〕少女才長け鶯の鳴き真似する 三橋鷹女
>>〔7〕金色の種まき赤児がささやくよ 寺田京子
【2024年3月の木曜日☆板倉ケンタのバックナンバー】
>>〔6〕祈るべき天と思えど天の病む 石牟礼道子
>>〔7〕吾も春の野に下りたてば紫に 星野立子
【2024年2月の火曜日☆鈴木総史のバックナンバー】
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【2024年2月の水曜日☆山岸由佳のバックナンバー】
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>>〔3〕人のかほ描かれてゐたる巣箱かな 藤原暢子
>>〔4〕とぼしくて大きくて野の春ともし 鷲谷七菜子
【2024年2月の木曜日☆板倉ケンタのバックナンバー】
>>〔1〕寒卵良い学校へゆくために 岩田奎
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>>〔3〕時計屋の時計春の夜どれがほんと 久保田万太郎
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【2024年1月の火曜日☆土井探花のバックナンバー】
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【2024年1月の木曜日☆浅川芳直のバックナンバー】
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】