えんえんと僕の素性の八月へ
平田修
(『闇の歌』昭和六十年ごろ)
掲句は第二”句集”と位置づけられる『闇の歌』と題された作品群から。『海に傷』からわずか一年あまりで制作されていることから、制作意欲に溢れた時期であったことがうかがえる。
冒頭、「えんえんと」の語がひらがなで記されることにより重層性を生んでいる。「延々と」「奄奄と(息も絶え絶えに生気のない様子)」、あるいは「炎炎」や幼児の泣き声といった要素を内包する複雑なフレーズだが、中でも読者に強く想起させるのは「延々と」「炎炎と」の二つであるように思う。
自己の素性という生涯をかけて探求すべきテーマへと向かう身体は延伸しつづける時間の中に所在し、その時間は八月の暑さにより永遠と見まごうほどに揺らぐ。おそらくこの複層性は意図されたものではなく、むしろ平田の精神世界における時間のイメージや炎天にさらされる意識といったプリミティブな感情がこの語を書かしめたといってもいいだろう。
読者をも「僕」の延伸する時間のトンネルへと引き込む構造をとる掲句だが、ここではその一人称にも注目したい。そもそも平田の句群には一人称が頻出するが、特徴的なのはその表記に若干のゆらぎがある点である。以下、数句を挙げる。
〈俺が泣く又嚙み殺す雲に鳥〉(『海に傷』)
〈この春も僕飼い殺す母と居る〉(『海に傷』)
〈折り曲げて眠れば真っ赤な俺の川〉(『闇の歌』)
〈俺のみにくさ山ほど打って日の底に〉(『血縁』)
〈草青め青めて座ればぼくも青める〉(『白痴』)
特に「俺」は最も多く、平均して十句に二〜三句ほどのハイペースで登場する。これは単に彼の性格によるものである可能性が高いものの、もっと言えば彼の持つ無頼性の現れにも見える。「俺」は自然・社会・人間といった己をとりまくものに対してあくまでも自らの身体と精神をベースに向き合った平田俳句の中枢とも言える語だが、一方の「僕」「ぼく」はどうか。「俺」と比して登場回数はかなり少ないものの、今回の句をはじめ強烈な読後感を残す作品が多い。
おそらく緻密に意図された使い分けはなされていないようであるが、「俺」の語は「が」「の」といった動作の主体、所有の意味をもつ格助詞に接続する場合が多い。対して「僕」は一人称が目的語となったり「ぼくも青める」のように草のエネルギーに巻き込まれる形で動作させられているといった描かれ方をされる。つまり「俺」が積極的な主体であるのに対比させる形で検討するならば、「僕」は消極的な主体を意味する。これが無意識的に行われていたとしても、「僕」の句には猫や母といった動作する他者が存在することもその裏付けとなろう(なお後半の句群には「私」も頻出するが、これについてもいずれ取り上げる)。
世界に対する主体としての自己が頻繁に登場する平田俳句の中でも、自己のゆらぎに呼応した一人称を契機としてニュアンスの違いを読み取ることができた。書き殴りのようにも見える句たちを眺めてゆけば、そこには平田修という一匹の人間の足跡が驚くほど鮮明に刻まれている。
(細村星一郎)
【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。
【細村星一郎のバックナンバー】
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>>〔18〕夏まっさかり俺さかさまに家離る 平田修
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