裏返へりては春の水らしくなり 山口昭男【季語=春の水(春)】

裏返へりては春の水らしくなり

山口昭男

 「らしい」という言葉は紙一重だ。「林檎さんらしくて良いね」と言われると嬉しい。日頃の自分をよく理解してくれている人の発言だから。一方「女らしくて良いね」と言われるのは気分が良くない。その人が持つあるジャンルのイメージにあてはまっているかどうかの判断にすぎない発言で、私の個性とは無関係だからだ。こうやって区別してみると紙一重ではなくて一目瞭然?

 「私らしくありたい」と願う時や発言をする時、「私らしさ」が具体的であればそれは「らしさ」を超えた願望であり目標となる。何も思い描いていなければ人から指図されるのを拒否しているだけのように聞こえる恐れがあるのでこれを宣言するには覚悟がいる。

 歌詞で用例を探してみると〽僕が僕らしくあるために 「好きなものは好き!」と言えるきもち 抱きしめてたい「どんなときも。」(槇原敬之)や〽自分らしく生きてみたい 好きなものは好きと言える 私が好き「私らしく生きてみたい」(Little Glee Monster)など、好きなものを好きでいられることが重視されている。好きなものを好きでい続けるにもエネルギーが必要なようだ。

裏返へりては春の水らしくなり

 水に裏表があるかどうかを考えたことはなかったが、こう表現されると水を「一枚」と数えたくなってくる。「一枚」と数えるものには裏表が伴う。

 白波をたてずに汀で薄くさざ波が遡る。一方向であれば裏返るという言葉は出てこないだろう。そしてあの現象を裏返るの一言で形容したのは発見だ。

 春の水らしくなるとはどういうことだろう。裏返った瞬間に光が乱反射する。水面が柔らかな立体を描く。水面に映るものが動く。それらの質感に春らしさを感じるということだが、どうにも言葉で言いつくすことはできない。その場に居合わせるしかない。せめて映像を見たい。そうしたことができない場合、一番有効なのが俳句なのだと思う。質感を伴う映像を読者に思い描かせることで作者が受け取った感覚そのものを伝えるのだ。言葉は媒体であって、本質そのものであることは少ない。

 「らしい」は日本国語大辞典によると‘いかにも…の様子である、…にふさわしい、…と感じられる、などの意を表わす。’裏返るまでは春の水らしさが足りなかったのだ。穏やかな動きがでた時に春の水らしさ、つまりは春の訪れを感じたのだ。しかも語尾に「ては」がついているのでその裏返りは何度もくり返されている。その度に春の訪れを実感しているのだ。下五を「なり」と連用形で言いさしているのでまだまだ続くことが予想される。水が裏返るほどにどんどん春らしくなっていくのだ。

『木簡』(2017年刊)所収。

※教科書のエピソードは下記の情報を参考にしました。
https://www.city.hino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/024/157/rekimin138.pdf

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



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