なだらかな坂数へ日のとある日の 太田うさぎ【季語=数へ日(冬)】


なだらかな坂数へ日のとある日の)

太田うさぎ
太田うさぎ第一句集「また明日」(2020年)より)


私たちの生まれ育ったこの小さな島国は、いくつもの火山帯が走り、山がちである事で知られる。わずか37万平方キロメートルほどの国土の大半は山林であり、平坦といってよい土地はその山々の窪みや、山裾と海に挟まれた辺りにかろうじて僅かな広がりをみせるのみだ。それゆえこの国の父祖は斜面との折り合いのつけ方は巧みで、坂の路地に織りなす美しい家並みは、小津安二郎の映画「東京物語」の頃の尾道などに見る通りだ。石川県の白米千枚田などの棚田もそんな父祖の暮らし方の表象で、今にいうニュータウン開発とかとは考え方も趣もまったく異なる。「自然との共生」が綺麗ごとのスローガンではなく、普通に生活の知恵であった時代はたしかにあったように思う。

東京も坂は多い。雨上がりの夕暮れ、路地の舗道の美しい神楽坂、小説「D坂の殺人事件」の舞台といわれ、乱歩ファンをわくわくさせる団子坂(―もっともあの古本屋も蕎麦屋も、それらしいものはないのだが)など、枚挙に暇ない。八王子の高尾山の標高599mを筆頭に、起伏はけっこうなもので、23区内でも80mほどの標高差があり、通勤でもスーパーへの買い物でも、少し歩けばすぐに道は上ったり下ったりする。平野といっても凹凸や坂は、この国の地表の常態のようだ。

それら凹凸の、もっとも高い頂を体験できたのは20代。学部生の頃、富士吉田市出身の友人に連れられて3人ほどで八合目から徒歩で富士山に登りご来光を拝む。さらに研究室に進むと登山家でもあった教授に連れられて、夏の北穂高から大キレット経由で槍ヶ岳と回るという大それたルートに、初心者丸出しの軽装で臨んだ。パーティは6,7人だったろうか。初日は酔いの回った身体に寄ってくる蚊に悩まされ、二日目は朝方に教授の設計作品であるヒュッテに立ち寄り、「野沢温泉のロッジの方が好きかな」などと生意気な事を考えたりしつつ、ここを登り切れば北穂高頂上という急斜面と向き合う。気を抜くと下までずり落ちそうになるのを何度もこらえつつ、押しつぶされた蛙のような恰好で進んでゆくー「理由をつけて断ればよかった」と、後悔が何度も頭をよぎる。途中雲を抜けてゆくと雨が下から吹き上げてきたりしたが、なんとか頂上に。満天の星空の下、あたためたレトルトカレーをかけた飯盒炊きのご飯が澄みわたった空気のせいか、おそろしく美味かった記憶がある。翌日は反対側を降りて大キレットへと下る。さすがに楔めいた足掛けはあるものの崖はどこまでも急で、緊張がさらに動きを硬直させる。ようやく下りた先に伸びる大キレットは両側が深い谷で、そこから吹き上げて来る強い風の中、綱渡りの綱のようにしか見えない細い道を進んでゆく。風がさらに勢いを増すと、みんな腹這いになって進むしかない。雨にも降られながら、どうにか槍ヶ岳の頂上近くの小屋に辿り着くと、汚れた顔を拭いもせず思わずみんなで万歳を叫んだ。

ところが来た方向の反対側を見遣ると、あろうことか「なだらかな」坂を自分よりもはるかに軽装な人たちが普通に都会の坂道の散策のように登ってくる。数十年前から、有名な山では「登山あるある」の話だったようだが、なんだか自分たちの苦心の成果にもっと楽な近道があったことに少しがっかりしたのも事実だ。だが翌朝、畳にして数畳ほどの広さしかない槍の「最先端」を体験したのち、その「なだらかな」坂道を歩いて降りてゆくとき、身体が驚くほど軽く感じ、空でも飛べそうなほどの心地よさを覚えた。星飛雄馬が大リーグボール養成ギブスを外して最初に球を投げた時はきっとこんな感じだろう、などとも思ったものだ。おそらく苦心して槍の小屋に辿り着いた昨日がなければこの気分はなかったし、逆にこちら側から登っていたとしたら、間違いなくそれは「なだらかな」坂ではなく、「険しい」坂として記憶されたことだろう。経験が認識を作り、感覚をまったく逆のものにしたりするのはそう珍しい事ではないように思える。

冒頭句、上五「なだらかな」は「坂」にかかる形容動詞だが、こうした形容詞とか形容動詞での表現は、常に相対的に意味を形成する。同じ勾配の同じ坂でも、本人が険しいと思えば険しい坂だし、なだらかと感じればなだらかな坂となる。主観といえばそれまでだが、ここでは「なだらかな坂」と季語「数へ日」との力みのない対比が、句の根幹として揺るぎない。誰でもきつい日、悲しい日、悔しい日もあればスキップしたいくらい、それこそ空も飛べそうなくらい浮き浮きしてしまう日もある。一年を、或いはこれまで生きてきた時間のすべてを、報われた事もそうでもなかった事も、ゆっくり振り返りつつ作者は歩いている。私たちはみなギリシャ神話のシーシュポスのように、重たい岩を坂の頂上まで運び、また下に落ちたら上に運ぶ刑罰をこなすのに日々忙しい。「数へ日」なら尚更だが、そんな中にふと感じた「坂」の「なだらかさ」に作者はどれほど癒されたことだろう。明日になればこの感触は立ち消え、坂はまたいつもの険しさに戻るかもしれない。だからこそ今日という日は、大切な「とある日」なのだーこの句に無駄な言葉は一語とてなく、倒置の語順、「の」の韻律も含めぴくりとも動かしようがない。すべての語が心地よく響きあって静かな感動を読み手に覚えさせてくれる。それにしてもなんと希望に満ちた句だろう、この「とある日」もきっと、ヴーヴ・クリコは頃合いに冷えて、作者を待っていたに違いない、そう、そして「また明日」も。

ちなみに山を体験させてくれた教授はそれから2年も経たないうちに癌のため急逝した。

享年六十三歳。危篤で生死をさまよっていた時、「あの人は、ビバークしているだけなのよ」とおっしゃった奥様の言葉が、今もって記憶の襞に貼りついて離れないのだった。

(小滝肇)


【執筆者プロフィール】
小滝肇(こたき・はじめ)
昭和三十年広島市生まれ
平成十六年俳誌「春耕」入会
春耕同人、銀漢創刊同人を経て
現在無所属
平成三十年 第一句集『凡そ君と』



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