月光に夜離れはじまる式部の実
保坂敏子
(『芽山椒』)
古代人は闇を嫌った。男が女の家を訪れる逢瀬の夜は月夜でなければならなかった。「妻訪い婚」「通い婚」と言われるが、古代では、男は夜に女の家に通う。公認の仲で無い場合は、人気のない森などで逢い引きする場合もある。闇夜を忌み嫌う古代人は、本命の恋人とは、月夜に逢うのである。無月の夜や雨夜の逢い引きは許されなかった。闇夜に外に出かけることは、悪霊に取り憑かれると信じられており、禁忌であった。
月の暦を見ると月の明るい晩は、意外と少ない。半月から満月を経て欠ける半月までは、約10日間。以後、逢えない日は、月の出の遅い半月から新月を経て次の半月まで約10日間。現在の暦でいうと、月の光のある日は、1ヶ月に15日ほど。雨や曇日、各々の事情を考慮すると、月に5、6回、多くて10日ぐらいしか逢えない計算になる。それでも現代の恋人達よりも逢えているのかもしれない。
立待月、居待月、寝待月、という言葉は、逢い引きをするための条件である月の出を待つ、待ち遠しい時間を表している。とは言っても、実際に月夜の晩にだけ逢っていたのかというとそうでもない。『万葉集』には、「雨夜にも関わらず逢いに来た。禁忌を冒してでも逢わずにはいられなかった」という内容の歌があるので、恋の情熱は、悪霊も恐れずといったところである。『源氏物語』にも匂宮が雪夜を冒して浮船に逢いに行く場面がある。
その一方で、闇夜に逢うのは公認されていない恋人である場合もある。月夜の晩は人目があるため、公認された恋人に逢いにゆく。人々の外出できない闇夜は、隠された恋人に逢うのである。禁忌の外出である以上、逢う女は、人妻などの禁忌の女もしくは、本命以外の女なのだろう。ちなみに『源氏物語』宇治十帖に登場する浮船は、薫君の恋人で、薫君に対抗心を燃やす匂宮が密かに横恋慕してしまう。そのため、薫君の訪れる月夜の晩には浮船と逢うことが出来なかった。雪夜を冒して逢いにきた匂宮の情熱に浮船の心は揺らいでゆく。
月光に夜離れはじまる式部の実 保坂敏子
〈夜離れ〉とは、男が女に逢いに来なくなることを意味する言葉。他の女の元に通いはじめたのか、忙しいだけなのか。〈式部の実〉からどうしても紫式部の『源氏物語』を想起してしまう。月が出ているならば逢いにきてくれるはずだが、当該句では〈夜離れ〉がはじまる。相手は、月夜の晩には来てくれない男なのだ。つまり、他に本命がいるということになる。自分は、闇夜にしか逢えない存在の女という設定になる。それは、双方の事情によるものなのだろう。式部の実は、闇夜では光らない。式部の実が光っている月夜には、逢うことの叶わない男。月光を吸い込んで紫を深めた式部の実が切ない。
現代は、月夜でなくとも逢瀬は叶う。だが、月夜の晩に限って逢えない男というのは存在する。月の運行は生き物の生理に直結している。月が出ると野生の本能に従い、本命の女にしか逢わない男もいるだろう。また『源氏物語』の六条御息所のように月光を嫌う女もいる。
当該句の〈夜離れ〉は、相手の男の気持ちが女から離れていくような印象がある。紫に染まった小さな実をぎしぎしと寄せ合う〈式部の実〉の孤独な光。次に逢える日はいつになるのか。無月になったら逢えるかもしれないという期待がもの悲しく漂う一句である。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
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