ゆがんでゆく母語 手にとるものを、花を、だっけ
おおにしなお
自分のことば、というのはとても厄介だ。
知らないうちにすぐ他人の口ぶりに影響されて、我ながら「こんな言い回しが自分の抽斗の中にあったっけ?」と小さく驚くことがある。それは口先から環境に適応しているということなのかもしれないけれど、そのうち思考までもが「元・自分のものではなかったことば」に引っ張られ、乗っ取られてしまうおそろしさを感じる。
俳句に引き寄せて考えると、この現象には便利なこともあって、句会選評時の「先達のことば」を取り込むことで、自分も句会での評をすらすらとそれらしく述べることができる(ような気がしてくる)。俳句を始めておよそ十年経つが、句会という場への適応をスムーズにしてくれたのは間違いなくこの現象のおかげもあるので、おそろしがってばかりいるのもおかしなことである。ただそれゆえに、滑らかなことばこそ警戒しなくてはならない。表層を上滑りして口からすっと流れ出るその評は、自分ではない誰かの思考のあらわれなのだ。要は自分のことばも思考も、他者との関係性の中で形成されてきたもので、身の裡にはオリジナリティなんて大して存在しないのかもしれない。
ゆがんでゆく母語 手にとるものを、花を、だっけ おおにしなお
そんなことを、この句によってつらつらと考えさせられた。
「ゆがんでゆく」とあるので、一句の中に時間の流れがある。ぼんやりと、自身の内面にある母語の変容を意識しているようだ。母語ということば自体もちょっと厄介である。母語と母国語は明確に異なるものだ。日本にルーツを持つ日本出身者の両親から日本で生まれ、かつ日本で育った人は母語=母国語(日本語)であることに疑問を持たないだろうが、言語的なバックグラウンドの異なる生育環境においては、その個人にとっての母語が何なのかも千差万別となる。母語という概念そのもののゆらぎ、そしてそれがさらにゆがんでいく経過に、句を読む視界がぼやけていくのを感じる。
そして、一字空けに続く「手にするものを、花を、だっけ」。言い表したいものが何だったのか、なんとも頼りなくなっていく。そして目的格の「を」。「を」の後には動作が続くことが想定される。ことばがゆらぎ、ゆがんだ末に、動作の対象になるものを「手にとるもの」と呼ぶべきか、あるいは「花」と呼ぶべきか、どんどん確信が喪われていく。スカルド詩におけるケニングのように語が変容する様も思わせる。呼称があやふやになる意識の濁りもさることながら、「手にとるもの」あるいは「花」と呼ばれるものを、どうしようというのか。「を」のその先の、語られることのない動作も気になってしまう。
ことばがゆがみ、思考を、そして運動までも左右させていく。ことばを扱う私たちが、いかにあやふやな意識の上でそれを遣り取りしているのかを思い知らされるのだ。
表現上の工夫としては、一字空け、読点が目につくが、連作全体で見るとひらがな表記の多用が、やわらかで曖昧模糊とした意識の靄みたいなものを演出しているようにも思えてくる。
ねーうしとらうう、よわくて強いうまれの子 / おおにしなお(以下同)
ねぎらい疲れともだちに咲きつくはないちご
ああ はつなつお化けおでこで言葉つむげたら
はんせいもようとてもきれいなパスワード
若くして閉ざして退屈なふなあそび
ゆるされプール白の時間をぬりつぶす
ふわふわして、よくわからないけど何だかすごく良い、と思う俳句にときどき出会うのだが、この作者の作品もそのひとつ。
掲句はネットプリント『まいちるちいさなおでこたち』の15句「ちょっとあそぶよ、ほんもので」より。石村まいと「おでこのちいさい、小麦好きのふたりによる」ネプリで、テーマは「おでこと白」。石村まいの短歌15首「エウレカ」も良かったのだが、もう印刷できないのが残念。
ネプリはそもそもがふわふわして儚いものだけれど、『まいちるちいさなおでこたち』は特にそんな印象が強く漂っている。
目の前を過ぎ去っていくのが惜しくて、はじっこを摑まえておきたくなるけれど、するっと逃げていってしまう。そんなことばを、おでこでつむいでいるのだろうか。
きっとそれが、自分のことばになっていくんだろうな。なんだかうらやましい。
(楠本奇蹄)
【執筆者プロフィール】
楠本 奇蹄(くすもと きてい)
豆の木など参加。第11回百年俳句賞最優秀賞、第41回兜太現代俳句新人賞。句集『おしやべり』(マルコボ.コム,2022)、『グッドタイム』(現代俳句協会,2025)。
Twitter:@Kitei_Kusumoto
bluesky:@kitei-kusu.bsky.social
楠本奇蹄句集『グッドタイム』はこちらのサイトでもお求めいただけます。
https://yorunoyohaku.com/items/681cc2c9d7091d26eed37cc5?srsltid=AfmBOoqyGEPaDlk0bjxFTnhTbJhfW_8zSN-8C4Zh5M1OZ4Y-Q2Qo_5v8
https://100hyakunen.thebase.in/items/109144894
【2025年6月のハイクノミカタ】
〔6月3日〕汽水域ゆふなぎに私語ゆづりあひ 楠本奇蹄
〔6月4日〕香水の中よりとどめさす言葉 檜紀代
〔6月5日〕蛇は全長以外なにももたない 中内火星
〔6月6日〕白衣より夕顔の花なほ白し 小松月尚
〔6月7日〕かきつばた日本語は舌なまけゐる 角谷昌子
〔6月8日〕螢火へ言わんとしたら湿って何も出なかった 平田修
〔6月9日〕水飯や黙つて惚れてゐるがよき 吉田汀史
〔6月10日〕銀紙をめくる長女の夏野がある 楠本奇蹄
〔6月11日〕触れあって無傷でいたいさくらんぼ 田邊香代子
〔6月12日〕檸檬温室夜も輝いて地中海 青木ともじ
〔6月13日〕滅却をする心頭のあり涼し 後藤比奈夫
〔6月14日〕夏の暮タイムマシンのあれば乗る 南十二国
〔6月15日〕あじさいの水の頭を出し闇になる私 平田修
〔6月16日〕水母うく微笑はつかのまのもの 柚木紀子
〔6月17日〕混ぜて扇いで酢飯かがやく夏はじめ 越智友亮
〔6月18日〕動くたび干梅匂う夜の家 鈴木六林男
【2025年5月のハイクノミカタ】
〔5月1日〕天国は歴史ある国しやぼんだま 島田道峻
〔5月2日〕生きてゐて互いに笑ふ涼しさよ 橋爪巨籟
〔5月3日〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
〔5月4日〕春の山からしあわせと今何か言った様だ 平田修
〔5月5日〕いじめると陽炎となる妹よ 仁平勝
〔5月6日〕薄つぺらい虹だ子供をさらふには 土井探花
〔5月7日〕日本の苺ショートを恋しかる 長嶋有
〔5月8日〕おやすみ
〔5月9日〕みじかくて耳にはさみて洗ひ髪 下田實花
〔5月10日〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
〔5月11日〕逃げの悲しみおぼえ梅くもらせる 平田修
〔5月12日〕死がふたりを分かつまで剝くレタスかな 西原天気
〔5月13日〕姥捨つるたびに螢の指得るも 田中目八
〔5月14日〕青梅の最も青き時の旅 細見綾子
〔5月15日〕萬緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
〔5月16日〕彼のことを聞いてみたくて目を薔薇に 今井千鶴子
〔5月17日〕飛び来たり翅をたゝめば紅娘 車谷長吉
〔5月18日〕夏の月あの貧乏人どうしてるかな 平田修
〔5月19日〕土星の輪涼しく見えて婚約す 堀口星眠
〔5月20日〕汗疹とは治せる病平城京 井口可奈
〔5月21日〕帰省せりシチューで米を食ふ家に 山本たくみ
〔5月22日〕胸指して此処と言ひけり青嵐 藤井あかり
〔5月23日〕やす扇ばり/\開きあふぎけり 高濱虚子
〔5月24日〕仔馬にも少し荷をつけ時鳥 橋本鶏二
〔5月25日〕海豚の子上陸すな〜パンツないぞ 小林健一郎
〔5月26日〕籐椅子飴色何々婚に関係なし 鈴木榮子
〔5月27日〕ソフトクリーム一緒に死んでくれますやうに 垂水文弥
〔5月28日〕蝶よ旅は車体を擦つてもつづく 大塚凱
〔5月29日〕ひるがほや死はただ真白な未来 奥坂まや
〔5月30日〕人生の今を華とし風薫る 深見けん二