純粋な水が死に水花杏 平田修【季語=花杏(夏)】


純粋な水が死に水花杏

平田修
(『海に傷』昭和59年)

大学時代、ラテンアメリカ音楽研究会というサークルに所属していた。演奏するのはフォルクローレと呼ばれる南米の民族音楽。チャランゴという弦楽器とガットギターを伴奏に、ケーナ、サンポーニャといった管楽器が旋律を奏でる。

↑フォルクローレの有名曲「Pururunas」。筆者お気に入りの1曲である

自分は当初ギターを担当していたが、遊びで吹いてみたケーナにハマってからはもっぱらケーナを吹いていた。ケーナは本来葦や動物の骨で作られる縦笛で、リードのないいわゆるエアーリード型の木管楽器。先ほどの「Pururunas」でも、主旋律を形成していたのがケーナである(低音の掠れた音を出す笛が「サンポーニャ」。)

純粋な水が死に水花杏
平田修
(『海に傷』昭和59年)

掲句は平田の”第一句集”とされる『海に傷』収録の一句。「死に水」は言わずもがな葬儀を連想させるが、そうした儀式の実景というよりは概念としての死に水であると捉えたい。純度を高めた水は実在そのものが死に水(=霊界への惜別)に漸近し、曖昧になった生と死・現世と常世の境界を縁取るように杏の花が開いてゆく。

この”句集”には表題句〈海に傷負わす石ありさくらんぼ〉をはじめとした112句が収録されており、初期の荒削りな詩情を存分に湛えている(もっとも、平田の俳句は最期までどこか荒削りであったが)。

先週お話しした通り、平田は尺八の奏者でもあった。というより、尺八吹きが俳句を始めた、という表現が適切である。演奏料や講師料で生活するプロだったというわけではないが、腕前は相当のものであったという。その音色はときおり雄介さんの家にも届いていたというのだから、贅沢な話である。当然ながら、もう平田の尺八を聴くことは叶わない。せめて録画でもないものか、雄介さんに訊いてみようと思う。

尺八は先述のケーナと同じ、エアーリード型の楽器である。音を出すには吹き方の習得が必要で、一音吹くのに数ヶ月かかる人もいる。簡素なつくり故の難しさだが、慣れてしまえばそれは「優れた音の操作性」という長所に変貌する。たとえばピアノでドとド♯の間の音を出すことはできないが、尺八/ケーナにはそれができる。顎の角度や息の量を調整することで、発声のような表現が可能になるのだ。

〈別れかなさざえの生身玻璃に見て〉

〈絡らみあう蛇やさしさというあまり〉

〈さけびたき渕へざくろをかぶりつく〉

〈まぶしい食卓地球儀どこか焦げくさく〉

〈ふるさとは大きなみどりの包帯である〉

『海と傷』収録句をいくつか抄出した。平田が初学から句座をともにした「海程」メンバーの影響も多分に見て取れるが、独自の書きぶりはこの頃すでに萌芽している。特に名詞の唐突な配置とごくわずかな”疎外感”とでもいうべき寂しげな文体に特徴があり、「別れ」「やさしさ」「さけびたき」といった生臭い語も頻出する。ドとド♯の間にある空白という裂け目をなめらかに補修するような手つきが、平田の文体にはある。

栄螺の螺旋に包まれた身から別れを思う。喧嘩か交尾か(おそらく後者だろう)、絡み合う2匹の蛇に見出したやさしさにも不幸な展開を予想して目を逸らしてしまう。幸せの一つの象徴とも言える食卓は平田にとって眩しく、緑の美しいふるさとは包帯によって隠されている。人や世界に対してきわめて真摯に向き合った平田であったが、世界は同じまなざしで見つめ返してはくれなかった。

細村星一郎


【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。



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