はつ夏の風なりいっしょに橋を渡るなり
平田修
(『白痴』1995年ごろ)
青春詠とでもいうべき爽やかさである。句群『白痴』には似つかわしくないほどのまぶしいライトブルーに目を奪われてしまうが、掲句で注目すべきは韻律を崩してまで挿入された「いっしょに」という語だろう。平田句では自分の姿が描かれることは多いものの、めったに他人が登場しない。稀に肉親が登場することはあるが、恋人や友人といった純然たる他人の描写は皆無に近いと言ってもいい。ところが掲句からは、肉親とは違った距離感の他人が立ち上がってくる。その軽重はさておきどこか躁鬱的な気質を持っていたように見える彼ではあるものの、この句を単なる躁状態のごきげんで解釈するのはどこかもったいない。前後に配された
はつ夏の風なり自転車目むこう
快眠にして自転車麦も又青し
といった句とあわせて、これまでの句群になかった種類の魅力の萌芽を感じるのは僕だけだろうか。かんたんな語彙や、ともすればやや稚拙ともとれる文体すら、子どもの作る陶芸作品のような味わいを生み出している。とはいえ、先ほど躁鬱の文脈で読みたくないと言っておいて掌を返すような話にはなってしまうが、精神に闇を抱える人が時折見せる不安なほどに底抜けの明るさのニュアンスを感じないと言えば嘘になる。自転車がそのまま海へ突っ込んでしまうような不安感とうらはらであるからこそ、掲句の光はより強まっているのかもしれない。
さて。イーロンによる買収をきっかけにカオスの様相を呈するようになって久しいTwitterではあるが、それでも特定のコミュニティ内でにわかに湧き上がってくる共通の話題というのは存在する。例えばここ一週間の若手歌人たちの間では「新人賞ハック」という語をめぐる議論が局所的に生じているようである。かなりアバウトに歌壇を眺めている僕の目にも入るのだから、内部の滾りはもう少し強いのかもしれない。このムーブメントについて、せっかくなので少し触れてみようと思う。
話題のきっかけとなったのはおそらく松たかコンヌ氏によるnote「津島ひたち『風のたまり場』感想|最強の新人賞ハック作品だと思う。」である。第三十六回歌壇賞を受賞した津島ひたち氏の受賞作三十首『風のたまり場』を構成ベースで評(ないし”解説”)し、その総評として本連作を「審査員の思考や新人賞における連作の審査というプロセスを解析し、その最適解として出力された”新人賞ハック作品”である」と位置づけている。
図解も交えた評そのものは読みやすく面白いものであったが、物議を醸しているのはやはり「ハック」という強い一語ゆえであろう。物議と言っても一概に否定的な意見だけではなく、「そもそもハックとは?」「ハックということが存在するとして、それは可能なのか?」といった建設的な方向へも話題は進行している。これは俳句界にも(若干の状況的な差異はあれど)適用可能な議論であるように思えるので、すこし噛み砕いたうえで投げかけてみたい。まず論点を整理すると、
①「ハック」という語がやや強く、またネガティブな印象を与えるのではないか。
②はたして新人賞をハックするということは再現可能な行為なのか。
③受賞作を後から詠むことで”そう見える”だけであって、単に受賞者は短歌が上手いから受賞しただけであるというシンプルな事実を見落としてはいないか。
このあたりだろうか。
①については、坂本涼平氏のnote「『新人賞ハック』――評価者にコイツを推してもいいという言い訳を作らせてあげるということ20250203」によくまとまっている。生身の人間に「ハック」という言葉を投げかけることへのもやつきはもっともだ。他人を「操作する」といったニュアンスをあけすけにされることは気持ちの良いものではない。加えて、僕はこのハックという語が否定的に受け取られがちである理由の一つに「賞の神聖性・不可侵性を脅かす挑発的な言葉だから」というのがあると思う。
知っての通り、新人賞というのは近代俳壇・歌壇に根付いた作家の発見とプロモーションのための装置である。多数の応募者がいて、実績のある選者が一編を選び取ってお墨付きを与える。そして多くの場合それは総合誌や結社誌の名を冠しており、メディア的な権威付けも同時になされるわけである。そうした性質上、新人賞には権威と神性が生じるし、むしろそれを担保されている必要があるといえる。賞というシステムが原義からして権威的なものである以上、むしろ最低限の権威があることが健全な状態なのだ。これは俗に言う賞の”格”と言い換えることもできる。格のない賞は応募者も増えないし、話題にもならない。そしてなにより、賞の格を守ることはこれまでの受賞者を守ることとも直結する。
すこし話がそれたが、僕が思うのは「ハック」という語がこの神性を毀損しうることに皆がうっすらと危機感を感じているのではないか、ということである。賞が全てではないことは言うまでもないが、俳壇・歌壇というメカニズムは永久機関ではないので、どうしてもこうした燃料を必要とする。俳壇・歌壇の血液ポンプに孔を開けるような物言いに、その構成員である我々は無意識的な拒否反応を示すようにプログラムされているのではなかろうか。
②と③は少し近い話題かもしれない。たとえば過去の選考記録を読み漁ったり、選者の発言を掘り返したりすることで受賞作に共通して見られる傾向をつかみ、それを再現した作品を提出することで受賞する確率を上げる、という。言ってしまえばそれまでのことである。これに関して言えば、(取り上げておいてなんなんだというご意見はごもっともとして)あまり意味のない議論であると思う。する人はするし、しない人はしない。対策することで受賞率は上がるかもしれないし、上がらないかもしれない。各々のそうしたチャレンジは、他人の関与するところではない。
むしろ重要なのは「合わない賞に応募しない」という、回避のモチベーションだろう。たとえば自分の話で恐縮だが、僕は無季俳句や多行俳句を作るようになってから、角川俳句賞に一度も応募していない。これは現状の方向性で受賞できる可能性が限りなくゼロに近いため、そこにはリソースを割かないという判断をしたまでである。ここで(特にあふれるモチベーションに対して書く機会を十全に与えられていない若手作家にとって)問題になるのが、じゃあどこの賞に出せばいいんだ、という話である。もちろん究極的には俳句短歌など勝手に一人で書いていればいいのだが、少なくとも若手はそうはいかない。そしてこれはどちらかというと、歌壇より俳壇が抱えている問題であるように思う。
短歌の主な新人賞はそれぞれに特徴があり、棲み分けがなされている(ように見えるが、僕の浅学につき見えていない部分もあると思う)。無論個別の細かい課題はあれど、角川短歌賞、短歌研究新人賞、歌壇賞、笹井宏之賞……と言った具合に多くの選択肢があるといった非常によい状態にあるように思える。いっぽう俳壇に目を向けると、まず思いつく角川俳句賞を挙げたのちに言葉が詰まる。もちろん俳句四季新人賞や俳壇賞などの賞は多くあるが、それらが応募者にとって短歌研究新人賞や笹井宏之賞と同等の魅力を持っているかと問われれば、そこにはクエスチョンマークが残る。形式的に受賞者を排出しはするものの、それっきり。たとえば出版社の後援で句集を出版するとか、何らかのイベントに登用するといったアフターフォローも弱い(こんな分かりやすいことばかりする必要もないとは思うが)。以前飲み会である人が「うだつの上がらない賞をいくつかM&Aして、理想の賞を作る」ということを言っていたが、割と笑い話ではないと感じるのである。さらに悲しいことに、俳句界では若手の登竜門的存在として重視されていた「石田波郷新人賞」と「鬼貫青春俳句大賞」がここ2年で相次いで終了してしまった(波郷賞については復活の動きがあるというが)。あえて言うならば今、俳句界は権威が不足している停滞状態にある。そんな中で第十二回俳句四季新人賞を受賞した関灯之介の存在は、もはやハックでもなんでもいいから魅力的な力のある書き手が出てきてくれないかという他力本願な現状を打破しうる一筋の光であるように思う。俳句四季新人賞が彼を押し上げるのではなく、彼が俳句四季新人賞を押し上げるのだ。
結局まとまりのない話になってしまったが、とにかく若手を取り巻く状況はそれぞれのフラストレーションに満ちている。それが昔からの若手の役割であると言ってしまえばそれまでなのだが、やはり停滞というのは物悲しい。何かが少しでも、前でも後ろでも構わないから動いてくれることへの期待を捨てずに書き続けたい。余談だが、今回話題にした「hack」という他動詞は言わずもがなコンピュータをハッキングするという意味の英単語であるわけだが、「hack」という語はイギリス英語で「馬に乗って行く」という自動詞の意味も持っている。なんとポジティブなことだろう。他人のことを考える暇があるのなら、みんなで自分の馬に乗って進んでいきましょうよ。hack, hack!!
(細村星一郎)
【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。
【細村星一郎のバックナンバー】
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