糞小便の蛆なり俺は春遠い
平田修
(『白痴』1995年ごろ)
強烈な一句。〈糞小便の蛆なり俺は/春遠い〉という切れを意識して、倒置的に「俺は糞小便に集まる蛆虫のようだよ、まったく春の遠さにはうんざりだ……」という意を読み取るのが素直な読み方だろう。しかしこの「俺」の倒置は「春遠い」への連続も示唆しており、俳句的な切れを曖昧にする役割も果たしている。倒置された「俺」の心身を経由して糞尿に集く蛆虫と遠くに見える春とが接続され、春を消失点とした透視図法のような一枚の画面が浮かび上がってくる。平田俳句を読むことの大きな楽しみの一つに、こうした俳句的常識への裏切りがある。
ところで以前〈芥回収ひしめくひしめく楽アヒル〉 という句を紹介した際に、平田がバキュームカーで屎尿の回収をする業務に従事していたことに触れた。具体的にどれほどの期間その仕事をしていたのかは不明だが、この『白痴』の時期になるとこれまでの句群で頻繁に使われていた「糞尿車」という語は出現しなくなってくる。一方でモチーフとしての糞尿は依然として登場しており、たとえば『白痴』には掲句以外にも次のような句が収録されている。
春の日をポチャンしてひとつひとつ糞
晴れるなり蓬蓬の切れのいい糞に
親父糞そしておふくろも糞鳥帰る
私の青いうんこに春終る
糞や尿自体は句材としてことさらに珍しいものではないが、平田句のそれはあまりに「あっけない」。特別な意味を持たせるような用法はされず、あくまでも人という生物がその営みの中で排出する物質であるという書き様である。登場する単語の持つ意味に軽重をつけないことで景に独特の均質さが生まれ、するとそのどこか不自然にすら思えるムラのなさが翻って特異な文体を際立たせる。言葉によって意味を立ち上げるのではなく、意味内容が文体の特徴を規定するという不思議なスキーム。これには平田の文体が技術的にやや拙いところも寄与していそうで、彼の俳句はつまるところ、現代のテクニカルな俳句とはある意味で最も遠いところにあるのかもしれない。
(細村星一郎)
【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。
【細村星一郎のバックナンバー】
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