蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【季語=結氷期(冬)】

 今私の机上にあるのはまことにハンディな一書『覚えておきたい極めつけの名句1000』(角川学芸出版、2008年)である。編者は出版社自身。目次を開くと、例えば自然の項であれば、「天象」「地象」「明暗」といったキーワード別に現代俳人の名句(以下「秀句」ということにする)が選び出されるかたちで、その数は合計千句余り(1090句)に及んでいる。

 その中には、私自身が秀句として覚えている句も数多くあり、世に秀句と評価されて広く知られている句などが、各頁のいたるところに輝いている。「芭蕉千句」ならば、こちらは「現代千句」だ。 私自身の恣意が入らず、共感覚俳句を抽き出す底本としては打って付けである。 ちなみに、ここに掲出された約千句のじつに6割以上が何らかの比喩を含んだ句であり、取りも直ささず現代俳句の本質を語るには、比喩を抜きにすることはできないということでもあろう。

 ところで、現在といえば何といってもやはり散文の時代ではある。 文学においては特に尨大な量の現代小説の表現上の多様な試みを抜きにして、共感覚表現を語るのは片落ちというものであろう。 そこには、現代俳句の共感覚表現を考える上でなにが そこには、現代俳句の共感覚表現を考える上でなにがしかのヒントがあるのではないかと思っていた。 そこで、日本語の表現研究の第一人者で修辞学にも造詣が深い中村明による『比喩表現の世界』(筑摩書房、2013年)を繙き、「感覚の表現」の章を読む。

 するとそこには、現代の「作家が作り出したイメージの沃野を訪ね、鮮烈なものの見方に出会う」との帯文に違わず、長短の散文の比喩表現の文例があるわあるわ。 その中から、これは共感覚表現だと見られる文例の一部を抽き、それに当たる部分をごく短く列記すると次のようになる。 初めの括弧内は当該部分に係る主部または情況描写の要約、末尾のそれは諸感覚の組合せである。

  ○ 三島由紀夫の『花ざかりの森』に、「(秋霧の一団が)背戸をとおりぬけていくのがきこえた」(視覚と聴覚)

  ○同『花ざかりの森』に、「(老人の寝起きのときのかすれ声の) 柔和な、たとえばかすれ勝ちの隅の筆跡のような、郷愁的なまでの発音」(聴覚と視覚)

  ○梶井基次郎の『城のある町にて』に、「(数里離れた市の花火の) 綿で包んだようなかすかな音」(視覚と聴覚)

  ○幸田文の『流れる』に、「(芸者屋の主人が練習する唄声には)ざらつく刺激がある」(聴覚と触覚)

  ○同『流れる』に、「(隙間風が)梨花の背なかへ細長いつめたさを吹きつけてくる」(視覚と触覚)

  ○田宮虎彦の『琵琶湖疎水』に、「(生粋の大阪弁が)餅肌の様にねばねばと舌たるく、言葉同士がもつれあう様にきこえた」(聴覚と触覚と視覚)

  ○円地文子の『女坂』に、「(その女の)顔も手も足も皮膚一様にどこも桜の花びらのような薄花色に匂っていた」(視覚と嗅覚)

  ○村上春樹の『遠い太鼓』に、「重くぬめぬめとした匂いが、はっきりとした比重を持って断層のように浮遊している」(触覚と嗅覚と視覚)

  ○林芙美子の『清貧の書』に、「(部屋の中は)馬糞紙のようなボコボコした古い匂いがこもっていて」(視覚と触覚と嗅覚)

  ○有島武郎の『生まれ出づる悩み』に、「(米の飯の味は)無味な繊維のかたまりのような触覚だけが冷たく舌に伝わってくる」(味覚と触覚)

  ○大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』に、「(冬の夜霧の)冷たい空気が硬い粉のように瞼や頬に痛かった」(視覚と触覚)

  ○内田百閒の『掻痒記』に、「(頭の痒さは言語に絶して)自分の頭が三角になる様だった」(触覚と視覚)

  

(次週につづく)

望月清彦


【執筆者プロフィール】
望月清彦(もちづき・きよひこ)
1935年東京都三鷹市生まれ。東京都在住。俳誌「百鳥」同人。総合誌「中央線」同人。1990年俳誌「裸子」年度賞・身延山賞、2008年角川書店賞、2011年毎日俳壇賞、2012年読売俳壇年間賞、2013年朝日俳壇賞、2020年読売俳壇年間賞受賞。同年NHK全国俳句大会龍太賞入選、2021年同龍太賞入選。句集『遠泳』(読売俳句叢書第Ⅰ期第2集)現在『読売年鑑』文学分野載録俳人、俳人協会会員。


望月清彦の自選10句】

夕燕過ぐ海わたる迅さもて

白梅のほか隙間なく暮れにけり

一笛に喜怒転じたり薪能

幾山河越え来しごとく祭笛

青春の分水嶺の書を曝す

遠泳の沖をみず岸かへりみず

秋思ともおのれに帰りつきしとも

いづこにも影を落とさず鰯雲

叩きたる焚火形相変へにけり

鷹の眸(め)とわが眸の間(あい)にちりもなし



【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】

>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し      芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ    芭蕉
>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉      芭蕉
>>〔4〕埋火もきゆやなみだの烹る音      芭蕉

【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】

>>〔1〕秋灯机の上の幾山河        吉屋信子
>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子
>>〔3〕後輩の女おでんに泣きじゃくる  加藤又三郎
>>〔4〕未婚一生洗ひし足袋の合掌す    寺田京子

【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】

>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊     杉田久女
>>〔2〕鶴の来るために大空あけて待つ  後藤比奈夫
>>〔3〕どつさりと菊着せられて切腹す   仙田洋子
>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒     山口青邨

【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】

>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり   夏目漱石
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな   永田耕衣


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