なにがなし善きこと言はな復活祭
野澤節子
季語【復活祭】
イエスが十字架上の死後、三日目に復活したことを記念する祝日。
思えばずっと暗闇の中を生きてきた気がする。
もちろん人によって暗闇の定義はさまざまだろう。
闇にも濃淡がある。そしてそれは、いつでも主観によるものだ、
ということもわかっている。
ただ私の、約三十年にわたる人生の中で、
日の当たる場所を歩いた、という記憶はない。
小さい頃からとにかく内気で、消極的で、人見知りが激しかった。
それは今になるまで変わらない。
一人っ子で、父の仕事で転勤が多かったせいか、
近所に遊ぶ友達もいなかった。
両親は、あまり私に構っている時間はなかった。
リカちゃん人形とシルバニアファミリーが
私の世界の全てだった。
明らかな変化が起きたのは小学校の入学式の日だ。
はじめてのクラスで、私は一言も発することができなかった。
友達に話しかけることはおろか、先生に挨拶することも。
言葉を出そうとすると、私の内側の何かが全力で止めようとするのだ。
私は混乱し、固くなり、自分の内側に閉じこもった。
今でこそそれは「場面緘黙(ばめんかんもく)」だと調べればわかる。
家やごく少数の人とは普通に会話ができるが、
特定の場所ではどうしても話せなくなる症状だ。
しかし当時はそんな名前であることすら周りの誰も知らなかった。
一般的には時間が経つにつれ解消することが多いようだ。
しかし中、高、大学と、私の症状はそれほど変化を見せなかった。
特に問題行動もないが、一言も口を利かない変わった女の子、として
私の学生時代は過ぎていった。
私は、表情を消し、存在感を消し、いくつかの希望も消した。例えば恋なども。
大学は通信教育で、プログラミングを専攻した。
私にできそうなことで、人と会話をしなくてもいい職業はかなり限られていたからだ。
卒業してからはクラウドソーシングを使って自宅でできる仕事を探した。
基本的に几帳面だし、メールでのやり取りにはなんの問題もないので、
私の仕事の評判は悪くなかったのだと思う。仕事が途切れることはなく、
そのようにして私の20代は過ぎていった。
あるよく晴れた秋の日、私は一人で散歩をしていた。
そして細い路地を曲がったところに、古い教会があるのを見つけた。
白と水色で塗られた壁。入り口の上には丸い大きなステンドグラス。
三角屋根の上には小さな十字架があり、そこに白い雲が、引っかかるように止まっていた。
思わず入り込んだ敷地は、染み入るような静けさだった。
私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
人の気配がして振り返ると、教会の入口のあたり、金木犀の樹の下で、
高齢の神父が私を見て微笑んでいた。
毎週その神父のもとに、聖書の勉強のために通うようになったのは、
その静かな微笑みのせいだったと思う。
私は筆談で自分の症状を伝え、神父はそれを受け止めてくれた。
勉強会は、聖書を読みながらわからないところを筆談で尋ね、
それに対して神父が口頭で答えてくれる、という形式で行われた。
聖書にはさまざまな人物が登場するが、そのほとんどが人の救いを求めている。
二千年ほどの時を経ても、人の悩みは変わることがない。
ずっと一人で暗闇にいた気がしていた私は、一人ひとりの物語の中に、
深い共感を持って引き込まれることになった。
勉強会は続いた。季節は移ろい、その神父に対して
私は小さな声で自分の言葉を話せるようにもなっていた。
洗礼を受けてみてはどうか、と誘われたのは、年が明けて間もなくの頃だった。
聖書の勉強を続けていく中で、私は一人ではない、という気になっていた。
この現実の世界ではなく、聖書の世界に没入していけば良いのだ。
わたしは聖書と、そこに登場する一人ひとりの物語に、
自分の居場所を見つけたような気がしていた。
信徒として、新しい人生を歩んでいくことを、私は受け入れた。
私の洗礼は、復活徹夜祭に行われることが決まった。
イエスの復活を祝う復活祭は、クリスチャンにとってクリスマス以上に
重要な日だ。洗礼を受けるのはその前夜に当てることが多い。
桜の木の枝に硬い蕾が膨らみ始める頃、復活徹夜祭がやってきた。
ミサは夜に行われる。聖堂の明かりが消え、蝋燭の火が、
手から手へと回されていく。暗闇の中に、小さな炎が連なる。
洗礼を受けるには、信仰を確認する質問に、
集まった信徒の前で誓わなければならない。
これから私は、この聖書の世界に没入していけば良いのだ。
誰にも聞こえないような小さな声かもしれないが、
「誓います」と声を発することに、抵抗はなかった。
私の洗礼は滞りなく進んでいった。
「父と子と精霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」
ついに私は、神とだけ向き合う世界に入ることを許されたのだ。
暗闇から抜け出た先に、新しい人生が私を待っている。
そのとき、世話役の一人が私を呼び止めた。
そして集まった人々にマイクを持って語りかけた。
「今日から私たちに、新しい仲間が加わりました。
一言、ご挨拶をいただきたいと思います。」
マイクが私に向けられた。
聖堂をぎっしりと埋めた人たちが、
私の言葉を待ち受けている。
なにがなし善きこと言はな復活祭
野澤節子
※気になる一句から膨らむストーリーを書いていきます。作者の人生、作句の背景とは、全く関係がありません。その点ご理解、ご容赦いただけると幸いです。
(小助川駒介)
【執筆者プロフィール】
小助川駒介(こすけがわ・こますけ)
『玉藻』同人。第三回星野立子賞受賞。
星野椿先生主催の超結社句会「二階堂句会」の司会進行係。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】