早蕨の袖から袖へ噂めぐり
楠本奇蹄
たとえば人間が景色のなかに含まれているとき、その人が見ているのはたった一つの景色だろうか。眼の前のひとつの風景をきっかけにして、記憶のなかにあるさまざまな光景が呼び覚まされ、眼前のものを見ながら同時に過去の風景をも脳裏に浮かべていることもあると思う。
楠本奇蹄の句を読んでいるとき、時折そういう感覚がある。つまり、いくつもの光景や感覚が自分の目の前にあるものに重なって、現れては消え去るところを見ているような。透けながらかさなるいくつもの風景。いろいろな試みのなされた句があるのだが、自分はそういう句に特に惹かれる。
早蕨の袖から袖へ噂めぐり
早蕨を摘む袖が、ふと口元を覆う。覆った口元から、袖のすきまから、煙のように噂が立ち、それが人から人へとながれこんでゆく。この句の噂がどんなものかはわからないが、妙に立体的で、それが句の風景の上のほうにちらちら現れたり消えたりしているように感じられる。目の前の光景が早蕨と人々で、うっすらかさなっているレイヤーが噂。
山風の手に置きかはり郁子の花
目の前にあるのが手なのか郁子の花なのかははっきりしない。というか、正確にいうとどちらもかつて視野の中を通過した、という感じがする。すこし冷たい強い春の山風がざあっと吹いて、その中に誰かの手が、郁子の花が、置き換わりながら消えていく、という感じ。まぼろしのように。
この「手に置きかはり郁子の花」も現象としてふしぎなのだが、そこにかかっている「山風の」の、「の」もふしぎ。たとえば「山風や」ならよりわかりやすいが、「山風の」とつなぐことによって山風が手とも郁子の花とも接続しているように感じられ、そのぶんまぼろしのような感じが増してくる。
ひぐらしのnerveをあふれ苦い飴
ひぐらしの声が空間にひびき、人間の神経線維を侵し、余ってあふれるほどになる。そのとき口の中にはこんこんと苦い唾が湧く。この句のわかっちゃう感じ、ほんと一体なんなんだろう。
作者は2020年頃から北斗賞や現代俳句新人賞など、毎年いろいろな場所で佳作・準賞を取り続けていた。魅力的だがかなり独特の文体であるために理解されづらく、推す審査員がいても多数の支持は得にくかったからかと勝手に予想していた。だから、この作者が第41回金子兜太新人賞を獲得して、句集を出してくれるのがとてもうれしい。早くこの句たちを、質量を持った本として手に取りたい。
(佐々木紺)
【執筆者プロフィール】
佐々木紺(ささき・こん)
1984年生、「豆の木」同人。2022年、第13回北斗賞受賞。2023年、「雪はまぼろし」20句で豆の木賞受賞。2024年、句集「平面と立体」刊行、島根「書架 青と緑」で展示「夜の速度」(山口斯×佐々木紺)。俳句一句の入った小箱「haiku souvenir」(紙屋)発売中。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【2025年4月のハイクノミカタ】
〔4月1日〕竹秋の恐竜柄のシャツの母 彌榮浩樹
〔4月2日〕知り合うて別れてゆける春の山 藤原暢子
〔4月3日〕ものの芽や年譜に死後のこと少し 津川絵理子
〔4月4日〕今日何も彼もなにもかも春らしく 稲畑汀子
〔4月5日〕風なくて散り風来れば花吹雪 柴田多鶴子
〔4月6日〕木枯らしや飯を許され沁みている 平田修
〔4月8日〕本当にこの雨の中を行かなくてはだめか パスカ
〔4月9日〕初蝶や働かぬ日と働く日々 西川火尖
〔4月10日〕ヰルスとはお前か俺か怖や春 高橋睦郎
〔4月11日〕自転車がひいてよぎりし春日影 波多野爽波
〔4月12日〕春眠の身の閂を皆外し 上野泰
〔4月15日〕歳時記は要らない目も手も無しで書け 御中虫
〔4月16日〕花仰ぐまた別の町別の朝 坂本宮尾
〔4月17日〕殺さないでください夜どほし桜ちる 中村安伸
〔4月18日〕朝寝して居り電話又鳴つてをり 星野立子
〔4月19日〕蝌蚪一つ落花を押して泳ぐあり 野村泊月
〔4月20日〕人體は穴だ穴だと種を蒔くよ 大石雄介
【2025年3月のハイクノミカタ】
〔3月1日〕木の芽時楽譜にブレス記号足し 市村栄理
〔3月2日〕どん底の芒の日常寝るだけでいる 平田修
〔3月3日〕走る走る修二会わが恋ふ御僧も 大石悦子
〔3月4日〕あはゆきやほほゑめばすぐ野の兎 冬野虹
〔3月5日〕望まれて生まれて朧夜にひとり 横山航路
〔3月6日〕万の春瞬きもせず土偶 マブソン青眼
〔3月8日〕下萌にねぢ伏せられてゐる子かな 星野立子
〔3月9日〕木枯らしの葉の四十八となりぎりぎりでいる 平田修
〔3月10日〕逢ふたびのミモザの花の遠げむり 後藤比奈夫
〔3月11日〕落花無残にみやこは遠き花嵐 秦夕美/藤原月彦
〔3月12日〕春嵐たてがみとなる筑波山 木村小夜子
〔3月14日〕のどかにも風力7の岬です 藤田哲史
〔3月15日〕囀に割り込む鳩の声さびし 大木あまり
〔3月17日〕腸にけじめの木枯らし喰らうなり 平田修
〔3月18日〕春深く剖かるるさえアラベスク 九堂夜想
〔3月19日〕寄り合つて散らばり合つて春の雲 黛執
〔3月20日〕Arab and Jew /walk past each other:/blind alleyway Rick Black
〔3月22日〕山彦の落してゆきし椿かな 石田郷子
〔3月23日〕ひまわりの種喰べ晴れるは冗談冗談 平田修
〔3月24日〕野遊のしばらく黙りゐる二人 涼野海音
〔3月25日〕蚕のねむりいまうつしよで呼ぶ名前 大西菜生
〔3月26日〕宙吊りの東京の空春の暮 AI一茶くん
〔3月27日〕さよなら/私は/十貫目に痩せて/さよなら 高柳重信
〔3月31日〕別々に拾ふタクシー花の雨 岡田史乃
【2025年2月のハイクノミカタ】
〔2月1日〕山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子
〔2月2日〕歯にひばり寺町あたりぐるぐるする 平田修
〔2月3日〕約束はいつも待つ側春隣 浅川芳直
〔2月4日〕冬日くれぬ思ひ起こせや岩に牡蛎 萩原朔太郎
〔2月5日〕シリウスを心臓として生まれけり 瀬戸優理子
〔2月6日〕少し動く/春の甍の/動きかな 大岡頌司
〔2月7日〕無人踏切無人が渡り春浅し 和田悟朗
〔2月8日〕立春の佛の耳に見とれたる 伊藤通明
〔2月9日〕はつ夏の風なりいっしょに橋を渡るなり 平田修
〔2月11日〕追羽子の空の晴れたり曇つたり 長谷川櫂
〔2月12日〕体内にきみが血流る正坐に耐ふ 鈴木しづ子
〔2月13日〕出雲からくる子午線が春の猫 大岡頌司
〔2月14日〕白驟雨桃消えしより核は冴ゆ 赤尾兜子
〔2月15日〕厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣
〔2月16日〕百合の香へすうと刺さってしまいけり 平田修
〔2月18日〕古本の化けて今川焼愛し 清水崑
〔2月19日〕知恵の輪を解けば二月のすぐ尽きる 村上海斗
〔2月20日〕銀行へまれに来て声出さず済む 林田紀音夫
〔2月21日〕春闌けてピアノの前に椅子がない 澤好摩
〔2月22日〕恋猫の逃げ込む閻魔堂の下 柏原眠雨
〔2月23日〕私ごと抜けば大空の秋近い 平田修
〔2月24日〕薄氷に書いた名を消し書く純愛 高澤晶子
〔2月25日〕時雨てよ足元が歪むほどに 夏目雅子
〔2月27日〕お山のぼりくだり何かおとしたやうな 種田山頭火
〔2月28日〕津や浦や原子爐古び春古ぶ 高橋睦郎