東京や涙が蟻になってゆく 峠谷清広 【季語=蟻(夏)】


東京や涙が蟻になってゆく

峠谷清広

小学低学年の頃、庭の片隅の蟻の巣を見ているのが好きで、よく見ていた。今でも好きで、蟻の巣を発見すると、しゃがみ込んでじっと見入っている。理想は薄い玻璃の容器に土を入れての巣穴の観察である。 

 図鑑などにあるように、本当に幾つもの部屋があるのだろうか?女王蟻は最深部に部屋を作るのだろうか?など、興味津々の有様であり。然し乍ら、ズボラな私としては、餌やりを忘れてしまったり、いろいろな世話をおろそかにしてしまったりする可能性が充分あり、蟻の世界を死滅させてしまう可能性も充分あり、手を出し兼ねている。  

小学高学年の頃、庭の片隅の蟻たちのために一大遊戯場、現在で言うところのテーマパークを作ろうと思い立ち、細かな枝や木の葉を使ってゲートを拵えたり、山を作って洞穴を拵えたり、石段を拵えたり、頂上に神社みたようなものを拵えたり、小石で囲まれたオープンレストラン、蟻百匹来場可能、ステージ併設、そのレストランには砂糖やキャラメルなどを置いた、などを作った。然し乍ら親の心子知らずと敢えて言うべきか、当の蟻たちは普段と変わらぬ狩猟採集生活を送っていたのであり、たまに山を登る蟻を見かけても、石段は利用せず、神社までも行かず三合目あたりで、何を考えているのか、元へ引き返したりするのであり、経営側としてはほとほと困ったこともあった。そんなわけで、蟻の一大テーマパークは寂れて行きもとの土や砂やに戻った。 

季語は蟻。「海程新鋭集 第5集(1998)」に収録。 

東京とひとくちに言っても、その意味するところの形態や規模は、さまざまだ。島や市町村を含む東京都全体を指す場合、東京23区に限る場合、大手町、霞ヶ関、永田町、銀座など東京都心を指す場合等が考えられる。または新宿、渋谷など特定の地域を思い浮かべる人もあれば、東京駅や、その周辺を思い浮かべる人もあるだろう。或いは、自分のかつて住んでいた都内の風景を思い浮かべる人もあるだろう。そんな漠然とした東京のイメージを、まず思い浮かべる。 

 ここでの「東京や」という強い切れ字を伴う表現は、作者固有の東京のイメージであるかもしれない。上京して来てから住んだ土地、学校のある土地、職場のある土地、結婚してから住んだ土地、映画やテレビドラマ、小説などで抱いた東京の土地のイメージ、それらが複合的重曹的に組み合わさって、生まれた作者にとっての東京のイメージが形成される。それを踏まえた上での感慨だ。

 職場でか家庭でか、なにか辛いことがあって公園へたどり着いた。ベンチに一人で座っていると、悲しみが込み上げて来て、知らず知らずのうちに涙が零れた。後から後から涙が出て、声を立てずに泣く。涙は砂地に落ちて、黒い染みをつくった。その黒い染みを見ていると、その辺りに蟻が一匹歩いている。一匹と見えた蟻は、目が蟻に慣れるに従って、実は五匹歩いていたのであり、周辺にもっと多くの蟻が見えて来た。涙が蟻にメタモルフォーゼしたかのように歩いてゆく、ということでもあり、ベンチに座って悲しみのあまり、じっと手のひらを見ているうちに泣けて来た。涙が手のひらへ落ちて、ルイス・ブニュエルの映画「アンダルシアの犬」のワンシーンのように、手のひらから蟻がたくさん湧いて出てきた(錯覚)ということでもあり、涙から蟻への転換が興味あるのである。ありがとう。

中嶋憲武


【執筆者プロフィール】
中嶋憲武(なかじま・のりたけ)
昭和35年(1960)東京生まれ。
平成6年(1994)「炎環」入会。作句をはじめる。 平成11年(1999)「炎環」新人賞。
平成12年(2000)「炎環」同人。
平成21年(2009)炎環賞。炎環エッセイ賞。
平成29年(2017)銅版画でANY展(原宿)参加。電子書籍「日曜のサンデー」。
平成30年(2018)攝津幸彦記念賞優秀賞。
平成31年(2019)第0句集「祝日たちのために(港の人)」。 「炎環」「豆の木」「豈」所属。
山岸由佳さんとの共同サイト「とれもろ」toremoro.ne.jp
「週刊俳句」で西原天気さんと「音楽千夜一夜」連載中。

祝日たちのために
中嶋憲武 著
(港の人、2019年)
価格 1650円(税込)
ISBN 978-4896293623

2018年、第4回攝津幸彦記念賞・優秀賞を受賞した気鋭の俳人の、句(120句)+銅版画(13点)+散文(17篇)を収めたユニークな第一句集。句は2018年にツイッターで呟いたツイッター句であり、時代の風景にスリリングに迫っている。

■収録作品より
蟻塚を越え来て淋しい息つく
夏炉あかるく人語に星を数へ得ず
海の鳥居の晩春の石は鳥になる
手が空いてゐる月白の舟を出す
葛湯吹いて馬の体躯の夜がある


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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